友人から「そば懐石を食べに行かないか」と誘われた。
住宅地の中で、今、流行りの「隠れ家」に来た気分。
中に入り部屋の「しつらい」の美しさと品のよさに心がなごむ。
つぎから次へと出てくるのは 珍しい料理ばかり。
器と盛り付け申し分なく、心配りが行き届いていた。
中でもそば豆腐はプルン プルンとして、のど越しもよく、初めての味わいだった。
生海老の唐揚げはとってもきれいな色で、「ひと口そば」に乗せて食べると相性が好くおいしかった。
香り高いそばを、よりおいしく食べるには、最初にそばを1、2本つゆをつけずに食べてみる。
つぎにつゆの味を確かめる。次にそばを4、5本づつつまみ、好みの深さまでつゆにつけてから、一気にすすりこむと教わった。
しかも出されたら3分以内に食べ始めてくださいとのこと。
ぜひまた訪れてみたい店のひとつとなった。
女性五人、忘年会を兼ねた食事会・・にぎやかでした。
【カット写真】この日お世話になったお店『燕楽』のしおり。
ここをクリック→蕎麦倶楽部『燕楽』http://www3.c16.jp/20-0720/
陶芸を始めて15、6年くらいになります。
瀬戸物のまち瀬戸市で過ごした子どもの頃、窯元である友人の家で 商品にはならないが充分使える抹茶茶わんや皿を、おもちゃ代わりにして遊んでいた。
まさか自分が陶芸をやるようになるとは想像もしませんでした。
今年 最後に焼きあがった作品は、黒ミカゲという黒土に白化粧を施したもの。
黒土に白の化粧土を使って刷け目を付け、針で引っ掻いて文様を付けました。
最近は黒土や赤土に白化粧という組み合わせが気に入っています。
4年間使用した車のタイヤを交換することになった。今回はスタッドレスタイヤに。
免許をとって40年にもなるが、機械にはうとくすべて家族やデイラーに頼りっぱなしである。
いままで雪道はほとんど走らなかった。
棚田を見に行くようになってから山道を走ることがあるので、冬場は冬タイヤが特に必要かなあ。
ミゾが減ったり ゴムが硬くなったら、冬用タイヤとしての寿命は終わりとか。
ゴムが硬くなるといっても、その程度が なかなかわからないですね。
「木曽川学」の講座で、水の恵みとともに生活する棚田の話を聴いて、是非と、行って見た。すっかり日本の原風景に魅せられた。
一度目は9月の まだ残暑きびしい頃であった。師走に入りもう一度 冬景色が気になり再度行った。
今度は、9月とは逆の道順で、八百津町側の峠道から行き、棚田を見下ろすところに出た。山々に抱かれた、冬場の田んぼもじゅうぶん見ごたえがあった。
近くにある「不動の滝」の売店で 地元の食材づくしの食事をいただいた。
店の人に坂折の棚田を見てきたと話したら、
「あれは、わたしの家の田んぼもあるよ」
「昔は急な斜面のために、重い米を運ぶのに苦労しました」
「生まれたときから見ているので、いい景色かどうか、あまり感じないよ」と笑ってみえました。
「4月の終わりごろには、田んぼに水を張るから、またいらっしゃい」と。
(道路が凍結しなくなったら)ぜひまた来ます・・。
師走の3連休のある日。娘の家族が生ガキを食べに鳥羽市浦村町に出かけた。
予約してあった店は大人一人2000円で自分で焼いてカキを食べ放題の上、バケツにいっぱいの生ガキのお土産付き。大人二人バケツ二杯の生ガキ(150個くらいはあった)は当然食べきれないので、実家である我が家に夕方に届けるからと連絡があった。
夕方6時ごろには炭火をおこして待っていた。
カキ剥き専用のナイフで貝殻を剥く。手指を傷つけながらも、慣れてくるとおもしろい。きれいにすーっと剥けると快感だった。
炭火で焼いた新鮮なカキはプリプリして、レモン汁、ポン酢をつけながら、いくつでも食べれた。
若いころひどくあたって以来30年振りに食べた人、これまで二度あたってもそれでも大好きな人、いままで食べられなかった人など、三世代3家族11人が冬の夜庭先で炭火を囲みながら 3時間半のサプライズパーティになりました。
「何十年ぶりかしら?」という友人をさそって博物館明治村を訪れた。
42年前に開村し、いまでは60余棟の歴史的建造物が楽しめる。
ボランティアガイドの方々に、最近出来た神戸山手西洋人住居を案内してもらった。明治の時代にこのようなモダンな住宅があったことに驚いた。
ちょうどクリスマス前の土曜日で、聖ザビエル天主堂の中で「アンコールコンサートB.B.Q.X'mas Live 07in明治村」が開かれていた。
思いがけず素適なコンサートを聞くことができた。ひさしぶりに賛美歌・もろびとこぞりての合唱に参加して、ひと足早いクリスマス気分。
帝国ホテル喫茶室でコーヒーをいただき、のんびりと枯葉の舞う初冬の明治村。散策はロマンチックな気分にひたれました。
4歳の孫が「おばあちゃんは大きくなったら(!?)なにになりたい?」と聞きます。
いつもまわりの人から自分が聞かれるように、聞いてくれます。
「新聞をつくる人(新聞記者のこと)」と応えておきます。
学生のころ学生新聞をつくるサークルでした。
記者にはなれませんでしたが、その後は新聞・雑誌にせっせと投稿して掲載されるのも楽しみです。
中学生の孫は「わたしは将来なにをしたいのか、まだよくわからない」と言ってます。
そんなとき、こう応える・・。わたしは50歳近くまで陶芸をやろうとは思わなかった。友に誘われてイヤイヤやってたよ。でも今は陶芸をやっている時が一番楽しい、いくつになっても本当にやりたいことがあればできるもの・・。