きのう 久しぶりに明治村を 歩いてきた。
わたしが結婚した年の3月に開村したから45年経つ。
そのころは建築物も少なくて、入村料が100円。
(現在は68棟。おとな1600円)
いまでは一日で見学しきれないほどに増え、重要文化財は10棟もある。
一年中を通して、イベントも開かれる。
この9月には「開村45周年特別企画」として、どなた様も 65歳以上は無料で入れる(9.18.~9.23.)。
また、小沢昭一村長講演会も開かれるようだ(9.20.).
秋には、着物姿で来村の方は入村料半額という おもしろ企画も(11.13.~11.28.ほか)。
年に何回か、地元市民に無料開放の日もある。
「 明治村に何度も来たくなったらコレがオススメ!
明治村住民登録(年間パスポート)のご案内 」も。
登録料:おとな3000円、65歳以上2000円で、直営駐車場が平日は無料。登録受け付けは、いったん入村してから山梨郡役所で。顔写真入りのしゃれたパスポート。
明治村は 今 また人気の博物館。
こんな近いところに、日本の宝がいっぱいあるので、
年間パスポートを買って、年に2~3回 行こうかなあ。
【写真上】 聖ヨハネ教会堂。学習院長官舎前から。
【写真中】 森鴎外夏目漱石住宅。
【写真下】 西郷従道邸。
犬山市民総合大学 明治カルチャー史学科 第1回講座。
演題は 「 明治村と近代建築 」。
9月の半ばというのに36℃という日、明治村(碧水)での講座。
講師は 博物館明治村の顧問・飯田喜四郎氏(前・博物館長)。
暑い中 歩いて西郷従道邸(重要文化財)、森鴎外夏目漱石住宅、聖ヨハネ教会堂など、建物を見ながら、講師の説明を聞く。
実物を見るというのは、やはり 一番。
なぜ 修復にこれを使うのか(材料、工法)、
その時代に存在した建築材料は どんなものだったのか、など。
説明を聞くと、いままで何度も見た建物でも、
その時代を物語っているようで、おもしろく見られる。
今日の、外での講座は、暑くて 疲れました。
【写真】市民総合大学 明治カルチャー史学科 野外講座。<上>西郷従道邸<下>森鴎外夏目漱石住宅。いずれも博物館明治村にて。
平成22年度 木曽川学 夏季特別講演会。
演題:「戦国時代の木曽川筋」
講師: 岐阜工業高等専門学校 教授 山本 浩樹 先生
木曽川は、犬山から扇状地をつくり、川筋を変えながら濃尾平野を形づくり、伊勢湾に流れる。
戦国時代の合戦において、川の水というのは、攻める側も、守る側も、重要な意味を持つものであったらしい。
1560年桶狭間合戦で勝った織田信長が、木曽川を越えて美濃国の斉藤道三・義隆の稲葉城を攻略するのに7年もかかった。そのあと上洛して京都を制圧するのに1年ちょっとしかかかっていない。
木曽川筋(木曽川の複雑な流路の自然条件や風土)は、戦国時代、東海道最大の軍事的障壁であった、という。
わたしの住む尾張の国でも、織田信長亡きあとの家督争いとなった。 1584年 小牧・長久手の戦いでは、長久手合戦で敗れた秀吉が、木曽川下流部の竹の鼻城を攻める際に、木曽川の堤を切ったため、広い範囲が水浸しにされて落城したと言われる。
そういった「川の流れが、全く変わると、歴史が変わる」というのが、話しの内容でした。
話しがそれることもなく、先生のお人柄そのままに、とても真面目な講演でした。
【写真説明】小牧・長久手の戦いの2年後、天正14年(1586年)の大洪水で、木曽川本流は境川(黄色部分)から、南の現在の流路に、大きく変わり、国境も尾張寄りに変わった。
ブログを書きはじめて、今日で1000日経った。(1000回目)
ブログが どんなものか。
何を書くのか、試行錯誤をくりかえしながら、今に至っている。
文を書くのは、子どもの頃から好きなほうだった、かなあ。
スポーツは苦手なので、高校も大学も新聞部で学校新聞を作っていた。
結婚後、子育てが楽になった頃、新聞社の主催する「エッセイ教室」に通ったことがある。
それ以外は 自己流で 好きなように書いているだけ。
新聞、雑誌の投稿欄には、ちょくちょく掲載された。
最近はブログを書いているので、投稿文まで書くことはない。
60代後半になって、こういう新しい世界を知ってよかったこともある。いままで知らなかった人とのブログ仲間ができ、お目にかかるということもあった。
海外の、トルコのカッパドキアに住む日本人女性との、コメントのやり取りも、わたしには驚きだった。
“お気に入り”にある人や、料理や陶芸の達人のブログを読んだり、在日韓国人の人の、ハングル付きブログを読むのも、楽しみの一つ。 ・・・などなど。
1000日の間に、いろいろな出来事も ありました。
ブログを書くことで、わたしの世界も ひろがってます。
今朝も 5時半に起きて、本を読む。
著者は80歳近いが、ミステリーから幻想小説、時代小説と、幅広い小説を書かれる。
本書も 7つの短編から なる。
『 少女外道 』は、著者の生まれたころ(昭和の初めころ)の、主人公・久緒の生い立ちから画家になり自立するまでが描かれたもの。
女流作家らしく、きめこまかい 生活の描写に、
「上手だなあ」と感心した。
他の6編も 楽しく読んだ。
また この作家のものを読みたい。
敬老の日が近づいたせいか、老人に関する記事が 多く見られるようになった。
「要介護にならないために 健康長寿のコツ」として、
「友人との交流が多く」「趣味の団体に参加」とか、
「外出頻度が多い」と、要介護になりにくい、という ほぼ同じ内容が多い。
また「社会参加をして、ほかの人の役に立っている」などの自覚があると よいそうだ。
わたしはボランテイアをしているので、今はこれが自分のためによいことなのだ、と感じた。
時々は おっくうで「もう止めようか」と思うが、
これからこそ 必要かもしれない。
自分のために ボランテイアも 続けたい。
【写真】 「要介護にならないために、健康長寿のコツ」
日経記事。2010.9.5.SUNDAY NIKKEI 健康欄。
「気に入った 湯呑みなので 直せない?」などと 聞かれる。
「突然 予期せぬ失敗から、愛着のある品との別れ」という不幸に出会うことがある。
ずいぶんと昔のこと、韓国語の先生から、ソウルの女子大生のホームステイを頼まれた(夏の講習中の3週間)。
もちろんボランテイアだ。
その子の親が、わたしが陶器好き と知っていて、手土産にと、青磁の鶴首の花器を持ってきてくれた。
わたしの好みであり、部屋に飾っていた。
ある日、窓を開けたらカーテンが風に揺れて、花びんに当たり落下した。
少し欠けたのが あまりに残念だった。
どうにか自分で直したい と思ったのが、金継ぎ(金繕い)のきっかけ。
その頃は英国の「修復家養成学校」へ行きたいが夢だった。
夢は破れたが、あれから 20年近く、
ほとんど 自分のものを直して、金継ぎを楽しんでいる。
30年前に、ルービック・キューブ(各列を回転させて面ごとの色をそろえる立方体パズル)が発売され、だれもがやっていた。
わたしも やっていたので、そのころあったはず。
いま、また ブームが再燃されている。
小学2年の孫が、とりあえず2×2キューブ(2.5cm大きさ)を買ってもらって、とりこになっている。
いつか新聞で、愛好家のサイトがあり「日本ルービック・キューブ協会」設立されている と読んだ。
大学のサークルもあり、世界レベルの子どももいる、とか。
今はコンピュータを使った数学的な解析もすすんでいるようだ。
孫に聞いたら「僕は 運が良ければ3面できるよ」と言っていた。
本屋でルービック・キューブ攻略本も出ている。
立ち読みしたら、いろいろな形の種類も あった。
【写真】ルービック・キューブブーム再燃を伝える日経の寄稿記事。2010.7.16.文化欄。
金繕い -2- 「盃洗い(さかずき あらい)」に挑戦。
径が12cm、高さが11cmあるところから、
染付けの「盃洗」の一種だと思う。
江戸時代中期から 昭和時代初期にかけて流行した。
「はいせん」ともいう。
知人を通して金繕いを頼まれたので、直接は知らない方の器。
わたしの素人の金繕いが どう評価されるのか心配だ。
欠けた破片はないので、パテで繕い、金粉を蒔いて仕上げた。
パテが乾いてから、ヤスリを掛けるのだが、
これがなかなか難しかった(人様のものだから よけいに)。
『 川喜田半泥子 無茶の芸 』 千早耿一郎・龍泉寺由香・共著
( かわきた はんでいし むちゃの げい ) 二玄社・刊
十年以上も前、陶器のギャラリーの店主に、
三重県津市郊外に在る、広永窯に連れて行ってもらった。
(ここは昭和20年ごろ、津市千歳山の窯を この地に移したとされる)
そのころは「東の魯山人、西の半泥子」と言われた陶芸家で、
一度は行ってみたいと恋焦がれていたので、うれしかった。
山門からも、広永陶苑のギャラリーへは、
車でどんどん入って行った奥に在り、
「なんて広いところだろう」という印象が残っている。
本書は、川喜田半泥子の 人となり が、
作品と共に紹介されておもしろかった。
わたしは、中でも、句画集が 好きだ。
(優しい絵と、わかりやすく ユーモラスな句が、描かれたもの)
【写真】千早耿一郎(ちはやこういちろう)・龍泉寺由香・共著 『 川喜田半泥子 無茶の芸 』 二玄社・刊 2007.3.20.初版発行。@2000e