下呂の「鳳凰座歌舞伎」に文科省の補助事業を持ちかける。
歌舞伎は世界遺産に登録されている日本を代表する演劇だ。しかし大方の日本人は、歌舞伎は世襲制であり歌舞伎役者の梨園に生まれなければできない世界と思っている。ところが、そもそも歌舞伎の原点は、むしろ下層階級から役者が出、江戸時代は農村社会が支えた大衆性にある。先の大戦にわが国は敗戦し多くのものを失ったが、その一つに地方の歌舞伎文化がある。日本を占領したGHQは、義理人情世界の歌舞伎を数年間禁じた。その結果戦前には1000以上あった地歌舞伎は激減、今や数えるほどしか残らない。その絶滅寸前の地歌舞伎が2か所残るのが下呂なのだ。歴史の奇跡といっていい。
私は「犬山祭保存会」の会長を長年務め、伝統的文化財の保存継承に深い関心を持っているので、衆議院の文科委員を務めた時「日本伝統芸能振興会」の竹芝源一さんと知り合い、歌舞伎の意味を発見した。
岐阜県にも下呂市にも歌舞伎の支援を話してみたが、ほかの芸能と区別できず、行政はこの下呂の宝ともいうべき地歌舞伎に援助の強弱をつける能力がない。
今回竹芝さんの協力を得て、文科省の予算のめどが立ち、今日その説明に行く。「鳳凰座」のある地域の区長数名にも集まってもらった。区長の中には、歌舞伎の役者を「好きなことをやっている連中」という見方があった。ここが伝統文化を維持することの難しさだ。どうしても伝統文化を維持するためには公的な財政援助がいる、しかし税金を投入するとなると多くの人のコンセンサスがいる。区長の発言はそこだ。「われわれは伝統文化の継承者だから応援してくれ」という主張だけですべては治まらない。
不条理かもしれないが、使命感を持ったリーダーが、謙虚に頭を下げることかな。
芥川賞と直木賞の小説を読む。
芥川賞を受賞したのは75歳の女性黒田夏子。直木賞を受賞したのは23歳の男性朝井リョウ。男と女、75歳と23歳、芥川賞と直木賞。この真反対の対称の違いが読書欲をそそった。
黒田夏子「abさんご」1時間でギブアップ。芥川賞選考委員の蓮実重彦が「誰もが親しんでいる書き方とは幾分異なっているというだけの理由でこれを読まずに過ごせば、人は生きているということの意味の大半を見失いかねない」と評している。黒田夏子自身、半世紀かかってこの文体にたどり着いたと言っているが、文章の意味が分からなければ、人生の意味どころではあるまい。が、芥川賞とは、他人に向かって語ることではなく、自分の内面に語る純文学だという解説を聞いて解らないなりに納得。
朝井リョウ「何者」は大学生の就活を巡る人間模様。ネット社会における言葉と表現について、その世界のスペシャリスト小説家としての問題提起と受け取った。納得の読後感。
中国映画「孔子の教え」鑑賞。
私の座右の書は「論語」である。高校時代漢文の授業で論語を音読した。江戸時代の学習方法はまず「論語」の音読だった。これはこれなりに教育学的に大きな効果はある。「論語」の片言隻句に満ち溢れる言葉の力が知らず知らずのうちに体に染みこみ、経験に当たった時その言葉が思い起こされ、その言葉の意味を考える。生きる為の指標。それこそが「論語」の持つ力である。日本の政治家、財界人で「論語」の一説を座右の銘にしている人は多い。日本人のみならず、東アジア人の人生観・統治観は論語=儒教世界に大きな影響を受けている。
その点に関心を持ったので、私なりに「論語」は勉強してきた。「論語」の解説書は多く読んだ。「孔子」という小説を書いた井上靖は孔子のことを人類の教師と呼んだ。哲学者梅原猛は孔子を挫折した革命家と呼んだ。中国古代文学の泰斗白川静の「孔子伝」は人間孔子を描いて秀逸だった。
今日の映画は、孔子の発する言葉の力をどう表現するかを注目して見に行ったが、それは、「論語」という書物が最初から頭にあるのであって、映画の映画たる表現力は、映像にありと頭を切り替えた。この映画には激しい戦闘場面がふんだんに出てきた。孔子の偉大さは、あの春秋戦国時代、乱れに乱れた世の中に「仁」というヒューマニズムを高らかに掲げたことにある。私には、現在のアラブの紛争地のイメージと重なった。
「朝に道(正義が行われているという話)を聞かば夕べに死すとも可也」という孔子のかの有名な一句は、仁義なき紛争のさなかにあって強烈な光彩を放つ。
この映画の監督はフー・メイという女性と知った。孔子の他人と争わないという生き方をテーマに女性ならではの感性で映像化したものだと私は観た。
土岐市のライオンズクラブから講演を依頼された。メインストリートが、いわゆるシャッター通りになってしまったので何か参考意見を喋ってくれという。「まちづくりについて私の体験談」というテーマで「犬山城下町の再生物語」を語った。
主張の核心を今こそローカリズム、すなわち経済のグローバリズム批判、「ふるさと主義」の持論に置いた。
事前に土岐市のことを少々調べたが、なんと土岐市を訪れる最大の目玉施設は、あのアウトレットショッピングモールである。そして、土岐市の商店街の人は、あのアウトレットができてから商店街が寂しくなったことを証言している。ここに土岐市の街づくりの戦略ミスがある。その当時は良かれと思った選択が、しばらくするとマイナスの結果を招く例だ。あの類の郊外型大型ショッピング施設は、地域貢献はてんから頭にない。資本の論理優先で、まず20年くらいのスパンで、利潤が上がればいいという計算でスタートする。かつアウトレットという商法は、ブランド信仰の罠にはめるものだ。モノづくりの技術とコストカットが驚異的に進み、作りすぎた余分な商品を処分するための安売りにすぎない。20世紀末、日本経済の絶頂期消費文明の遺物であると私は思っている。
そんな施設がそのまちの一番の目玉になっていていいのかという私の主張を多少婉曲に論じたが、果たして伝わったか疑問を残した。
街のにぎわいを作るために、観光客が何人に増えたなどと言う一時的に粉飾可能な数字にこだわることはない。まちというものは、自然と生活と経済の包括的なバランスの中に持続可能な発展を見出すべきである。
講演後、酒席での懇談会に呼ばれた。あんたの話は少々抽象的だと指摘する人がいたが、具体策は皆さんで考えることこそが大切だと答えた。心底そう思う。
大阪市立高校の体育部で、体罰が原因で一人の男子生徒が自殺した。初めは体罰論争から始まったが、橋下大阪市長が教育委員会の体質に論点を進め、教育論争になった。
私は大学受験時代体育の教師を目指したので、この「体育と教育」のテーマは極めて身近な問題意識としてとらえた。体育の教師にはなれなかったが、犬山市長時代、教育行政にプライオリティーを置いたし、政府の中央教育審議会委員も務めたし、衆議院の文部科学委員でもあったから、教育行政は専門家であると自認している。
体育という教科は他の科目にはない美徳がある。それは集団生活の協調性を養い、利他の道徳を教える。人生にとって重要な忍耐の精神も鍛える。私は常に今の日本の教育制度の中で、受験勉強の弊害の最たるものは体育教育の軽視であると思ってきた。
が、この体育の教師の中に体罰を正当化したい人がかなりいることにかねてから抵抗を感じていた。「Education」を「教育」と訳したのは福沢諭吉と聞くが、「学習」と訳すべきであったという説がある。その通りだ。教えることではなく学ぶ行為が力となる。われわれが、何かを身に着け、成長する最大の原動力は自ら獲得に行こうとする自発的な力だ。内発性と呼んでもいい。それは楽しみを希求するエネルギーだ。体罰という外からの強制力は内からの自発性にかなうわけがない。
私はスポーツを愛する者として、肉体と脳の関係を熟知してきた。人間という生き物は脳細胞が理屈として納得しなければ、肉体の進化は持続不可能だ。有能なアスリートは必ずその原理を知った者であり、体罰の是認者は所詮二流の筋肉マンにすぎない。
教育界に、徹底した体罰の否定論を投げかけ、そのための行政改革を求めた橋下市長の主張を私は支持する。
昨日の続きを書く。伊藤県会議員の後援会に出て帰り道、海津市にある「千代保稲荷」に参拝した。京都の伏見、愛知の豊川とともに日本の三大稲荷神社として有名なのだが、私はこの「おちょぼさん」だけは今まで訪れたことがなかった。昨日のテーマである「ローカリズム」私流に日本語にした「ふるさと主義」から言うと、神社こそがこの「ふるさと主義」のランドマークなのだ。
さすが「おちょぼさん」、門前市を成す繁盛ぶりで参拝したことが何となく気分がよかった。正月、日本列島津々浦々、澎湃として参拝の日本人でふるさとの神社は溢れる。何故だろう?これがローカリズムの源泉なのだ。理性ではない、われわれの遺伝子に組み込まれた本能に近い行為なのではないのか。毎日の忙しい仕事と生活に流され忘れているが、われわれの内には、ふるさとへの回帰、ローカリズムが自動的に組み込まれている。
大垣市選出の岐阜県議会議員伊藤秀光という私の友人がいる。私が犬山市長当時、全国で開催される地方自治に関する勉強会でよく一緒になり、まじめな勉強家で好ましい政治家像を抱いてきた。その伊藤さんが、1年に一度の後援会総会に私を講師として呼んでくれた。
初めは気楽に考えていたが、よく聞いてみると、今春行われる大垣市長選挙に立候補する予定という。4期目を目指す現職への挑戦だ。これは私もそれなりの覚悟をもって演壇に立たねばならぬと心を定めて大垣に向った。
ただ、1月の今の時点からいきなり選挙の話に入るのはオーバーペースのきらい無きにしも非ず、今日の話のタイトルを「今こそローカリズム」という私のかねてからの持論と決めた。この「ローカリズム」という言葉は、今や世界中の政治・経済の不安定要素の原因となっている「グローバリズム」への批判論であるが、これを「ふるさと主義」と異訳した。
グローバリズムが資本主義と結びつき、人間の際限ない物欲を野放しにしていることが諸悪の根源と私は考えている。この弊害を抑制するためには、今や、健全なナショナリズムか宗教の出番ではないだろうか。「風土」という言葉を使ってもいい。そういうものを分かりやすく私は「ふるさと主義」と呼びたいし、私はこの価値観は犬山市長を12年経験して人生観と成した。その話をした。そして市長とはこの「ふるさと主議」の先導者であり、市長選挙とは皆さんとふるさとを、先人から引き継ぎ、未来へ渡すバトンタッチだと思うと、語った。
選挙には一般論として少々触れた。自分の経験と学習から言えることは ① 4年に一度は対立軸を立てて市民が政策論争をする。 ② 市長は長くても3期で新陳代謝し、政権交代するのが民主主義のルール―である。一人の権力者が長々と何時までも君臨し続けることは後進性のメルクマールとなる。
などを述べた。聴衆は主催者発表では1000人ということであった。今後、現職側の反応やいかに。
4月に向かって大垣市が熱くなる!
名古屋で「女性首長を実現する会」が発足した。
会の発起人である高野史枝さんから案内が来て、来賓として出席。高野さんは「男女協働参画社会」の推進者の愛知県のトップリーダーであり、私も以前からずいぶん影響を受けている。
「男女協働参画社会」とは、私はちょうどベートーベンの「第九」をイメージしている。あの「フロイデ」は全く男と女が半々で、男の声だけでなくまた女の声だけでもなく、男と女の混成合唱でしか生まれない感動世界だ。私は「男女協働参画社会」の熱心な推進論者である。
まずスタートの今日は、愛知県内の女性議員を含め、各種女性運動団体のリーダーが20名ほど集まった。来賓は、私と「みどりの風」代表谷岡郁子参議院議員の二人であった。だから、新聞記者2名以外男は私一人。
私は、東京財団の研究員をしていた当時、欧米先進国の地方議会を視察研究し、日本の地方議会、地方議員に女性の少なさを痛感した経験を語った。女性がもっと積極的に政治世界に進出すべきというのが私の論点である。
全員で討論になった。私は出来る限り黙っていようと思っていたが、皆さんあまりにも理論や理屈の発言ばかりのような気がしたので堪えきれず持論を言わせてもらった。「社会に向かって何か言いたいことがあったら、まず誰か一人選挙に立候補することです。世の中に優秀な人は多いが、今の立場を擲って、政治をやろうという決意と覚悟に大衆はついていくのだから、まず我と思わん人が立候補することです」と。
今日集まってきた人達はインテリジェンスに富み、言うことは、すべて納得できるのだが、言うだけではなかなか事態は前進しない。具体的に選挙で一人候補者を立てて、その候補者のもとに女性の潜在能力をアピールすることだ。「その点で、もうじきやってくる名古屋市長選挙をどう考えるのか、皆さんの代表として独自候補を立てるのかどうか真剣に議論しなければいけない」。と極めて刺激的な発言を、あえてしておいた。
いや、発言というような冷静なものではなく、これは彼女らに贈る激烈なエールだ。
昨年の暮れのことだった。下呂で親しい人たちの食事会に誘われた。場所は山中の民家の離れで、中央に囲炉裏が切ってあり、赤々と炭火が焚かれていた。酒はそこに流れる音が届く飛騨川で取れたアマゴをたっぷり使った骨酒、肉は飛騨牛の生産者からの持ち込み、味噌も醤油も漬物も全部集まってきた人の自家製、米は下呂産「龍の瞳」。のどが乾いたら、一歩外に出れば谷水がうるおしてくれる。ついでに空を仰げば、満天の星座が降るようだった。食事とは、食欲を満たすだけの行為にあらず。それは、われわれに与えられた、総合的な文化活動である。時間を忘れ、食事しながら歓談する醍醐味を味わった。
今日、名古屋で年来の友人金井さんに誘われてテレビ塔近所の「ラ・フェンテ」というスペイン料理のレストランで食事会。金井さんは、その世界ではカリスマ的なワインの輸入コンサルタント。メンバーはスペインのワインメーカーやら、料理研究家やら、大学教授やらワインマニアの面々。話題は、ワインについての薀蓄に始まり、海外のワイン事情、また、西洋史の中でのワインの歴史などなど。 私は、今日の会に昨年一緒だった下呂の牛屋さんを誘った。ワインの話の中に和牛の話題が受けた。スペインのロゼワインを飲み、飛騨牛を食べながらの懇談なので、当然その両者の感想を言い合う。結論は、ワインには牛肉が会うということだった。今日出席の牛屋さんは、ワインとセットで販売してみようかということを着想したかもしれない。
昨年の下呂の懇談会も食事のメインディッシュは飛騨牛であり、今日も同じ飛騨牛だったが、その食事の形と、集まった人種はまるで異質で共通点はなかった。食事しながら歓談する楽しさはいずれ甲乙つけがたしだが、話題の違いを比較しながら、何とも言えぬ一種おかしさを抱いたのは、私一人だった。
正月前後よくテレビを見た。時代に押し出されるようにエネルギーに関する番組が際立って耳目を引いた。
偶然観たのだが、アメリカの物理学者エイモリー・B・ロビンスの番組に釘づけになった。早速彼の著作「新しい火の創造」を購入、本日読了した。
40年先の2050年を想定し、アメリカのエネルギー問題を論じたもので、大きな示唆を得た。結論から言うと、脱原発、脱石油、脱化石燃料の再生エネルギーへの処方箋が書かれてある。その方法論に無理がない。
例えば、かって人類は塩の獲得を巡って戦争をした。塩は食物が腐るのを防ぐための貴重品だった。しかし今、冷凍技術の発達により塩をめぐる戦争などこの世から姿を消した。現在は、石油というエネルギーを巡って戦争が起きている。この石油というエネルギーが、どんな国でも生産できる太陽や風や水や地熱など自然の再生エネルギーに変わったら、現在の戦争はなくなる、と著者は言う。再生エネルギーは国家の安全保障上からも必要だと。
エネルギー戦略を、1運輸 2建物 3工業の分野から詳しく分析、省エネという何となく精神論のにおいのする言葉ではなく、コストダウンという経済指標で説明して説得力に富む。
最後に電力の項で繁栄の再構築を語っている。著者は物理学者ではあるが、スマートな都市とは何か、企業のマネージメント、政治のリーダーシップのあり方など時代の抱える問題を抽出し、最も大切な未来社会の方向を語り、倫理的な示唆が満載だった。
「今ある現実と闘って物事を変えることは決してできない。何かを変えるには、今あるモデルを陳腐化する新しいモデルを構築することだ」という言葉に、著者の主張が要約されている。
昨年末、中部大学の客員教授になった。大学内にある中部高等学術研究所の研究員というポジションだ。この研究所は国連大学の窓口にもなっているので、私としては、下呂の薬草園や、犬山の城下町を国連大学のユネスコ構想と結びつけられないかと考えている。
それはさておき、きょう中部大学内で能楽鑑賞会が開かれた。文学部の企画であるが、観世流能楽師久田勘鴎さんの解説付きで知的好奇心を満喫し、鑑賞後学食にて300円のラーメンで食欲も満たした。きょうの私の経験は、誰でも希望すれば可能である。若い時は仕事が忙しく、大学へなどなかなか出入りする余裕がないかも知れないが、定年過ぎて時間に余裕ができた人には、ぜひ大学を楽しく利用することを勧める。大学には市民向けにいろいろな企画が用意されている。
われわれは生きるために学び、かつ学ぶために生きるのだ。
正月休みも終わり、日本列島全体が仕事に向かって始動。
最も新鮮さを感じるのは何と言っても国政であろう。私は年末の予算編成時に選挙するなんてばかげていると思ったが、選挙の結果あれだけの人心一新と新年が重なるのは、ある意味画期的に新鮮であり、ドラマを夢見る。
今国政は、完璧なまでの安定感を感じる。ただし、今がピークで、次なる不安定への一歩が始まる。古今東西、政治というのは安定と不安定との織りなす綾だと思う。1点が繋ることによってリングが完成した瞬間、別の1点が弾け、次なるリング形成の運動が始まる。その1点の繋る瞬間が選挙である。3年半前、民主党が政権をとったとき、瞬間的に国政は安定した。が、その直後から民主党による政治の混乱と不安定が始まった。
決して不安定を望む者ではないが、それは歴史の真理である。
新年あけましておめでとうございます!
わたくしは毎年、元旦には高村光太郎の「冬」という詩を朗読することにしています。そして自分の心をりフレッシュしています。
「冬」
高村光太郎
新年が冬来るのはいい。
時間の切り替えは縦に空間を裂き
切面は硬金属のようにピカピカ冷たい。
精神にたまる襤褸をもう一度かき集め、
一切をアルカリ性の昨日に投げ込む。
わたしは又無一物の目あたらしさと
すべての初一歩の放つ芳しさとに囲まれ、
雪と霙と氷と霜と、
かかる極寒の一族に滅菌され、
ねがわくは新しい世代というに値する
清楚な風を天から吸はう。
最も低きに居て高きを見よう。
最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。
ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。
中部大学の三浦陽一教授と親しくなり、翻訳された「敗北を抱きしめて」をいただいた。日米両国でベストセラーになった名著で、感動とともに今日読み終えたので、さっそく三浦さんに以下のような読後の感想をメールした。
拝啓 三浦陽一先生
ただ今「敗北を抱きしめて」読了しました。何とか年内に読み終えることができ気持ちの一区切りに間に合いました。
歴史というものの持つ大きな感動と、名著の醸す読後の充実感の余韻が全身に充満しています。
正直私は翻訳物を読むのは苦手です。まず、外国語の文体は読みづらく、難解な文章が多いのですが、この「敗北を抱きしめて」はまず文章の上手さに感心しました。ほとんど翻訳という壁を感じさせず、ぐんぐん物語に引き込まれ、それこそ寝食を忘れ、久しぶりに読書の醍醐味を味わうことができました。著者ジョン・ダワーの力もさることながら、訳者三浦先生のお仕事にまず敬服です。
私は、1945年10月の生まれです。このドラマは、私がこの世に生を受けた2か月前から始まっています。明治に生まれ、日中事変に参戦した私の父親のこと、私の受けた戦後教育、そして社会人となって政治と言う職業に就き、日本の行政システムの中で、考え、反問してきた、私の人生のすべてを、違う角度から解き明かし、解説し、私という日本人を今世紀の世界史の中に位置づけてくれたような気がしました。
私は従来、憲法問題に極めて重大な関心を持ち続けてきましたが、この度、改めて新憲法の成立過程を学習し、現在多少湧き上がりつつある憲法改正の世論に対して考えるヒントを掴んだ気がします。
現在の日本国憲法は、天皇制というナショナリズムを死守する日本と、世界史の中でグローバライゼーションの典型であるアメリカという国とのハイブリットであるというのが私の考え方でした。この感を今回の読書によって更に深めた思いです。
今後、われわれはこの異質な価値観、矛盾的同棲をどうやって持続可能にしていくのか、世界史的、壮大な挑戦であると思っています。
私見を申し上げるならば、今の日本国憲法は天皇制、戦争の放棄、民主主義の実現のほぼ三点の議論に集中しました。「敗戦を抱きしめて」という卓越したドキュメントにより国家の統治システムについての深い議論は抜け落ちたというより、逆に官僚支配、中央集権が強まったということが確認できました。
今や、地方自治体の自立を中心に、タウンミーティングやNPOなどの市民活動による地域主権に国のガバナンスをシフトする憲法改正を私は主張いたします。
学ぶこと多き偉大な著作でした。
その機会をお与えくださいました先生に心から感謝申し上げるとともに、いずれお目にかかり懇談することを楽しみにしています。
よき新年をお迎えください。
12月31日
石田芳弘