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西枇杷島祭

西枇杷島祭

パーマリンク 2014/08/16 10:36:35 著者: y-ishida2 メール

この祭りを尾張の人は「ニシビの祭」と呼ぶ。枇杷島という地名の由来は面白い。町の境界を流れる庄内川の中州が枇杷の形に似てることからそう呼ばれるようになった。川を挟んで東側は名古屋市枇杷島町。従って、この「ニシビの祭」はほとんど名古屋タイプで、名古屋の空襲で全滅した那(な)古野(ごの)神社東照宮祭の山車そのものである。


 祭を主宰する神社は複数の氏神、中心となる神社の顔が見えない。西枇杷島町は人口1万6千人、面積3平方キロの小さな町だったが、旧美濃路街道の面影を残していること、そしてその街道筋に、尾張藩の台所「下小田井の市」があった歴史で、近郷近在には一つの個性を放ってきたコミュニティだ。ところが、平成の行財政改革とやらで三町が合併、清須市となり、「西枇杷島」という呼称は祭にその名を留めるのみになった。


 この祭りの見どころはからくり人形と見た。
山崎構成氏の名著「曳山の人形戯」によると、曳山にからくり人形を乗せる祭の7割は中部圏にあるという。知多半島を北に列島を縦断し能登半島に至る文化の帯がこのからくり人形の祭の集積地帯だという。
因みに、江戸時代、幕府は一種の軍縮政策で、あらゆる技術的な発明発見を禁じた。が、祭だけは左にあらず、理数系の才能は祭のからくり開発に覇を競った。その流れは関東では歌舞伎に向かい、関西では文楽に向かい、中部圏はからくりとして発達。今日中部圏の持ち味である、モノづくり、産業技術の土台となったという説を聞いたことがある。
西枇杷島祭のからくり人形の舞はレベルが高かった。山車は全部で5台、すべて江戸末期の作であり、各町内の山車にはからくりの主人公の名前が付けられている。橋詰町は王義之車、問屋町は頼朝車、東六軒町は泰(たい)亨(こう)車、西六軒町は紅塵車、圦西町は頼光車。
今年は橋詰町の幕を新調したというので解説を聞いた。前祭には簡単な紺幕、本祭りには猩々緋の幕を飾る。山車の前に掛ける幕は王義之流の書が金刺繍で施され、山車中段の幕には金具で蝙蝠(こうもり)の図が描かれている。蝙蝠は福を呼ぶと言われ、町内の繁栄と幸せを願う象徴である。彫り物の解説も長い、江戸末期名古屋の彫師森藤九郎住永の作、屋根や高欄部は河甚作という。山車のことを動く総合工芸品と称するゆえんである。ハイライトは山車の名前となっている王義之と2体の唐子人形。からくり人形には唐子と呼ぶ人形が登場するが、唐子は唐の国のことであり、服装もまさに異国のファション。王義之といい唐子といい、我々の先祖は故郷の神に異国の物語を奉納するわけだ。
日本列島は、ギリシャ・ローマ文明がシルクロードを経て東進し、中国文明を吸収してこの国へ至った世界文明の最後の終着点だった。そして、江戸期に発達した都市の祭文化はその爛熟だという見方もできる。

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