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「本来無一物」―書斎に掲げた禅語である。 人間は誰でも無一物でこの世に生まれ、無
一物で死んでゆく。死ぬ時はなんの肩書も金
銭も関係ない真裸で、生まれた時と同じ状態
で去ってゆく。
年々身の回りに身近な存在の人物が去って逝くようになって、私も頭の片隅に自分の死というものがちらつくようになった。
さらに、祭の研究をはじめ、知らず知らずのうちに宗教の世界に関心が湧くようになり、宗教学者島田裕巳氏の著作を数冊読み、最新作「0葬-あっさり死ぬ」で考えさせられた。
職業柄、膨大な数の葬儀に出てきた。
政治家稼業は一面、冠婚葬祭業といってもいい。正直、葬儀には、故人にあまり悲しみの感情移入がなくても行った。政治家は、葬儀場の供花みたいな存在であると思ったこともしばしばだった。祝い事は前もって日程が立つから都合がつくが、葬儀は突然だからやりくりに困ったものだ。だから私は通夜を重視した。通夜も、来訪者がおさまった頃を見計らい親族と会話できる頃行く。通夜に集まる親戚の相関図は政治家にとって選挙運動の最良の手引書だ。
話を戻す。
「0葬」によると日本の葬儀費用は世界一高いと言う。我が国では、平均で葬儀代が200万余円、墓を創ったらまた200万円、合計400万余かかる。アメリカ44万、イギリス12万などと比べると法外な金額になる。
今後我が国は団塊の世代が死ぬから、増々死者が多くなり、葬儀関係のビジネスは有卦に入る。需要と供給の経済原則で、葬儀にかかる費用はますます跳ね上がるだろう、と見る。
島田裕巳氏は、通夜も告別式も必要ない、死体を火葬場へ持っていき荼毘に付し(火葬にすること)、骨も受け取らなければいいと言う。骨を受け取るから、墓も要るわけだ。
どうしても規則で受け取らねばならない場合は、自分で砕いてそのあたりに播けばいい。それを「自然葬」と呼び、荼毘に付すだけで完了を「0葬」という。
伊藤栄樹(しげき)という御仁は「人は死ねばゴミになる」と言ったそうだ。この人は1985年検事総長をやった人だが、さすが法律家らしい表現ではある。しかし、この言葉を宗教的、あるいは文学的に翻訳すると、「人間本来無一物」とアレンジできないこともない。
私が犬山市長になったのは1995年だった。その後、2000年から介護保険が始まり、全国何処へ行っても介護施設が見る見る激増した。
そして、次に来るのは葬式に違いない。南海トラフの如き、団塊世代死亡の大津波が列島を襲う日も近い。
最近、超高齢者の葬式を聞いて「あの人まだ生きていたの」という世間の声を聴く例もしばしばある。肉体の死と、社会的な死との間隔が空き過ぎて、別れのリアリティが空洞化現象を起こす。
私の葬式は「0葬」で行くかどうか今少し時間をかけて考える余裕はまだある。