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祭を語る前に町について語る。祭を観る前にその町を知ることが祭を包括的に理解することになる。祭は町の個性を表現する。
私は大垣という町が好きだ。天下分け目の関ヶ原の会戦、敗軍の将石田三成はこの大垣城から出陣した。大垣城に立つと滝廉太郎の古城「昔の光 今いずこ」を思い出す。
大垣城は戦国の栄枯盛衰を語る名城である一方、現在の大垣市は、岐阜県一のハイテク都市として繁栄する活力に富む町だ。
五月晴れの青空に祭の幟がはためく大垣八幡神社へ祭を見に行った。
大垣市は日本列島のど真ん中に位置する都市らしい。濃尾平野は緩やかに鈴鹿山脈まで西に向かって降る。木曽三川の豊かな地下水脈はこの地で湧出し、大垣は水の都と呼ばれ、俳聖芭蕉終焉の地でもある。
文化の香り漂うこの地の祭は大垣八幡神社の祭礼である。この神社のルーツは東大寺の自領であったという。因みに、現在わが国には神社が86,440社あるが、そのうち八幡社は7、817社。2位の伊勢信仰4、425社以下を大きく引き離して突出している。
八幡神社のご祭神は渡来人秦(はた)氏(し)の氏神であるが、聖武天皇は奈良の大仏殿建立に際して八幡神を護り神としたことにより、日本民族の最もポピュラ―な神となった。「南無八幡大菩薩」という言葉は、日本人が何か願い事をする時唱える典型的な神仏習合の呪文である。
ここ大垣祭は13台の曳山が登場する。車偏につくりは山の字を当て「ヤマ」と呼ぶ。そしてそのすべてのヤマには人形が乗り、更に歌舞伎を演ずる舞台がついている。子ども歌舞伎は楽しい。
私の住んでいる犬山の祭も13台の車山(ヤマ)が繰り出す。そして私の町内は舟形の車山であり、浦島のからくりを演ずる。今年大垣祭の浦島ヤマが昭和20年以来の再建を遂げたと聞いたのでそのヤマについて回った。
友人の庭師から、日本庭園の美学は造った時点から完成は30年後を見据えているという深い話を聞いたことがあるが、大体日本の工芸文物は歳月を経て骨董の次元に入らないと光らない。再建は祭関係者の壮挙ではあるが、今日浦島ヤマ(山偏に車)を見て、いまだ未完成品だと愚考した。
大垣祭の特徴、歌舞伎についても語りたい。歌舞伎も本来神社への奉納の舞が根底にある。
アマテラスが天岩戸に隠れ、この世が暗闇になった時、危機を救ったアメノウズメの踊りとテジカラオの怪力の物語は日本神話のハイライトであろう。出雲の阿国が歌舞伎を始める前にアメノウズメという神がいる。そして、江戸時代の歌舞伎文化こそ世界文化遺産に認定された日本人の演劇文化である。
大垣八幡神社を中心に屋台が立ち並ぶが、この的屋文化については他の祭で論ずる。