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大阪市立高校の体育部で、体罰が原因で一人の男子生徒が自殺した。初めは体罰論争から始まったが、橋下大阪市長が教育委員会の体質に論点を進め、教育論争になった。
私は大学受験時代体育の教師を目指したので、この「体育と教育」のテーマは極めて身近な問題意識としてとらえた。体育の教師にはなれなかったが、犬山市長時代、教育行政にプライオリティーを置いたし、政府の中央教育審議会委員も務めたし、衆議院の文部科学委員でもあったから、教育行政は専門家であると自認している。
体育という教科は他の科目にはない美徳がある。それは集団生活の協調性を養い、利他の道徳を教える。人生にとって重要な忍耐の精神も鍛える。私は常に今の日本の教育制度の中で、受験勉強の弊害の最たるものは体育教育の軽視であると思ってきた。
が、この体育の教師の中に体罰を正当化したい人がかなりいることにかねてから抵抗を感じていた。「Education」を「教育」と訳したのは福沢諭吉と聞くが、「学習」と訳すべきであったという説がある。その通りだ。教えることではなく学ぶ行為が力となる。われわれが、何かを身に着け、成長する最大の原動力は自ら獲得に行こうとする自発的な力だ。内発性と呼んでもいい。それは楽しみを希求するエネルギーだ。体罰という外からの強制力は内からの自発性にかなうわけがない。
私はスポーツを愛する者として、肉体と脳の関係を熟知してきた。人間という生き物は脳細胞が理屈として納得しなければ、肉体の進化は持続不可能だ。有能なアスリートは必ずその原理を知った者であり、体罰の是認者は所詮二流の筋肉マンにすぎない。
教育界に、徹底した体罰の否定論を投げかけ、そのための行政改革を求めた橋下市長の主張を私は支持する。