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東京都江東区富岡にある富岡八幡宮8月15日の例祭を「深川八幡祭」と呼ぶ。
東京に住んでいない者には地名の由来から学習しなければならない。司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ「本所深川散歩」に、「とりあえず江戸っ子の産地じゃないかと思った」とある。徳川家康が江戸城を築城、世界のTOKYOの始まりだが、現在の富岡八幡の地は隅田川河口永代(えいたい)中州の開拓地であり、その開拓者が関西摂津の深川八郎衛門であったという。
火事と喧嘩は江戸の花。江戸はしょっちゅう火事があり、材木問屋は儲かった。あの紀伊国屋文左衛門もその一人だ。その根拠地が深川であり、その地の産土神として富岡八幡宮は1627年祀(まつ)られ、深川の八幡さまと江戸の人々から親しまれた。深川界隈は、材木を扱うゆえに鳶や火消などの宵越しの金は持たねえ職人気質が参集、江戸城から見て辰巳の方角でもあり、岡場所もでき「深川芸者」という粋で気風(きっぷ)のいい女性の代名詞も生まれたという。深川はそういう江戸っ子と呼ばれる人たちの故郷でもあり、富岡八幡は江戸っ子の護り神でもある。蛇足ながら、赤穂浪士は吉良邸討入りの最後の打ち合わせを富岡八幡の前の茶店でしたというし、相撲の興行も、この神社の勧請相撲から始まったという、江戸の文化と歴史が直結した神社だ。
白状すると、私の東京観は前川清の唄う「東京砂漠」だった。日本中の人と富を収奪し尽くし、混乱と喧騒と強欲と不人情と乾燥の荒野だった。東京は紛れもなく日本人の際限ない強欲が作ったバベルの塔であった。そのTOKYOに、神も存在したと思ったのは、深川の八幡さまと祭を知ったからだ。
デジャビュというフランス語は、既視体験と訳す。初めての体験であるのにもかかわらず、何となくなつかしさを覚えることだ。神社の放つ美しさと祭の貴さがこれだ。
今年(2014)は3年に1度の本祭りで神が乗った神輿を乗せた車が氏子町内隈なく60キロを1日かけて巡行する、鳳輦(ほうれん)渡御(とぎょ)と呼ぶ。翌日の神輿連合渡御は鳳輦渡御のお礼という意味を持つ。前者が神の立場から、後者が氏子の立場の祭表現か。各町内から53基の神輿が勢ぞろいし、8キロ余を1日中担いで回る。神輿1基の関係者を100人とみると5300人余の担ぎ手が路上を埋める。水かけ祭とも呼ぶが、全員法被(はっぴ)姿にねじり鉢巻き、白足袋の大集団が、ホースから浴びせる大量の水でびしょ濡れになり、ワッショイ ワッショイの声と共に神輿を担ぐことにより神憑(かみがか)って醸す世界は壮観なものだ。
最後に富岡八幡宮の女性宮司富岡長子さんの挨拶を紹介したい。「子供は地域の、国の宝です。幸い深川ではお年寄りを敬い、子供たちを街ぐるみで育てようとする、本来の日本人が持ち続けてきた道徳秩序が今もなお根強く息づいています。」