アーカイブ: 2013年4月

4月28日 主権回復の日

パーマリンク 2013/04/29 14:12:52 著者: y-ishida2 メール

政府は昭和27年4月28日をもって、国家の主権を回復したと言っているが、私は沖縄の主張が正しいと思う。沖縄を日本の領土だと思うなら、今日は決して主権回復の記念日ではない。
この日、「戦争と一人の女」という映画を撮った井上淳一監督が名古屋へ来た。井上さんは犬山の出身であり、滝高校卒業というから応援する気になった。原作は坂口安吾の「白痴」いわゆる戦後混乱期のデカダンス。戦争とエロティシズムというか、戦争という殺戮行為で精神が破壊された男女の物語。落ちるところまで落ちた人間の生き方を描き、強烈な反戦のメッセージと受け取った。井上監督曰く、坂口安吾のテーマなんかを扱うのは30年ぶりぐらいではないかと。成程そんなものかと今更ながら、時代の価値観の変遷を思った。私も、井上監督も戦後生まれだが、この映画が出てきた今の時代背景に何かを予感する。
キャスティングもいい。プロデゥースの元文科省官僚寺脇研さんと、抜群の演技派俳優坂口安吾役を演ずる長瀬正敏さんにも会って、懇談した。最後の死ぬ場面を撮るために4日間絶食し7キロやせたという壮絶なエピソードに役者魂を知った。この映画を見た人の感想を聞きたいものだ。
この日もう一か所のイベントも面白く過ごした。岐阜県七宗町の集会に招かれて「山村の自然と共生するくにづくり・まちおこし」と題して講演。七宗は人口4〇〇〇少々の町で隣の美濃加茂市に合併の希望を伝えたものの財政事情の悪さから拒否されたと聞いている。合併しないほうがいい、貧しくとも、経済力だけが幸せの指標ではない、山村の自然に抱かれた共同体の生活に幸福を求めたほうがいいという立場からの持論、「今こそローカリズム(ふるさと主義)」を話した。講演後、主催者の皆さんとまちの食堂のような店で懇親会に加わった。酒が入り大いに盛り上がった。話題は、自然と共に暮らす生活やオラが町の自慢話で、聞いていて心底面白く楽しかった。人口など少なくても住民の絆さえあれば町は十分生きてゆく。逆に、政府や行政の援助にすがるのは後進性だ。この七宗にこそ日常的な自治の実践である民主主義の原点、タウンシップがあった。

4月25日 学力テスト

パーマリンク 2013/04/29 14:04:55 著者: y-ishida2 メール

文科省による、小学6年生・中学3年生を対象とする「全国統一学力テスト」が行われた。
私が犬山市長の時始まった制度で、私の決断で、全国の公立学校中犬山市だけこのテストを実施しなくて話題を呼んだ。民主党政権で全員調査から抽出調査になったものの、自民党になり又戻って、今年全員の調査となった。
まず言いたいことは、このテストは法律でもなんでもなくて、文科省の行政調査に過ぎない。地方分権の時代、自治体の自主判断でどうにでもなる。学力テストといえば、他にも学習指導要領の進捗調査やら何やらかにやら実は子ども達はテスト漬けだ。犬山の場合は、少人数授業を中心とした内発的な諸々の教育改革を重ねてきたので、これ以上テストすることなど不必要と考えただけのことである。
そもそもこのテスト発想は、学力観としてのいわゆる「ゆとり教育」の揺れ戻しから、またぞろ復活した「詰め込教育」(極端かもしれないが体育教科における「体罰教育」)とワンセットになっている。学力調査を競争による統制の手段として使おうという考え方、能率・効率を追求する昔ながらの学力観、相対的比較の価値観である。他と比較することは教育上大問題である。比較の行きつく先は、際限のない不平不満だ。教育の本質は、比較ではなく、ナンバーワンよりオンリーワン、絶対価値でなければいけない。
だから、私はこの全国統一学力テストは無意味と考える。
このテストは毎年何度やってもその調査の結果、教育政策に何が反映されたというのか、どう授業改善に生かされたのか聞いたことがない。中央官僚の紙と鉛筆、今は、コンピューターというのか、机上の仕事、調査と分析だけの典型である。

4月23日 リンカーン

パーマリンク 2013/04/25 07:39:42 著者: y-ishida2 メール

映画「リンカーン」を観る。この映画から、日本にとって最も親しい国、しかしその付き合い方において最も緊張しなければいけない国、アメリカについて考えた。最も親しいという意味は、日米安保条約のこと。国の防衛をアメリカに依存するということである。沖縄のことを考える時など、私には日本はアメリカの属国ではないかとさえ思えてしまう。日本は主権国家として、アメリカと対等に付き合っているとは言い難い。また、アメリカ発のいわゆるグローバルスタンダードという経済基準だ。このボーダレス文明が日本固有の文化を破壊し続ける。アメリカという超大国、覇権国家との対等の付き合いの難しさは我が国最大の難問ではないのか。
されど今日の「リンカーン」にアメリカという国の、一方のアイデンティティーみたいなものを観た。現在のアメリカ大統領オバマは最初の黒人大統領であるが、そのオバマを生んだのはリンカーンだ。当時アメリカで、しかも内戦の真っただ中、黒人の奴隷解放をやってのけたリンカーンとそれは支持したアメリカ連邦議会に大きな感動を覚えた。法の下、すべての国民は自由と平等を享受する。差別されることは決してない。それを守るのが国家であるという民主主義の原理原則をリンカーンは何処までも貫き通す。原理原則が揺らぐことがないから、議員との駆け引き、戦争の終結をも乗り越え、最後は暗殺される。この作品の監督スピルバーグは言っている「この映画にはリンカーンに対する我々の愛と尊敬が込められている」と。この映画製作にかかわったすべてのアメリカ人は、このリンカーンの唱えたアメリカ合衆国の理念をきっちり理解しているという気がしたくらい密度の高い出来映えだった。
先日ボストンでテロがあった直後、オバマ大統領の追悼演説をテレビで観た。国家と国民の関係が実に分かり易い、強烈なメッセージだった。アメリカにはリンカーンの血が流れている。
このアメリカという国と対等に付き合うという目標は高い。日本は我々固有の尊厳を失わず、且、謙虚で懸命な努力がいる。

4月22日 市長選挙

パーマリンク 2013/04/23 10:26:16 著者: y-ishida2 メール

昨夜各務ヶ原と名古屋市長選挙の結果が出た。また先週のことだが大垣市長選挙も結果が出た。3か所とも応援した候補者は負けた。 大垣は、友人の伊藤さんが現職の4選阻止に立ちあがった。誠実な人格者で、県会議員3期トップ当選の実績を擲ち勝負に出た。よく決断したと思ったが・・・。各務原、森さんは犬山と各務ヶ原、木曽川を挟んでツウィンシティーを目指した畏友だ。両人とも政治家にはまれにみる読書家で、特に森さんは書道や文章に練達し、常に知的刺激を受けた。
私は「権腐10年」、政治家という地位は何といっても権力者だから10年で精神的腐敗を生む、3期を持って次のステージに進まなければならないという自分なりの倫理感で、県会議員3期、市長3期ごとに新たな挑戦をした。
しかしそれは自分の価値観であって、人に押し付けるものではないとも思っていた。止める決断はやろうとする決断より難しい。半年ほど前、森さんを訪ねた。森さんも5期目の挑戦には考えるところがあったように推測する。私が口を切るのを制して、自分から、「次もやる!」と言った。
「やるがいいさ、どうなっても政治家の生きザマだ。自分の信ずる道を迷うことなく突き進むだけさ。それが政治家の人生さ。」
私自身の現在と重ねて、そう言った。
私は若いころ、選挙に負けるのは政治家として大きな欠陥があるからだと信じて疑わなかった。しかし、六十路を過ぎた今、戦いに負けることは恥ずべきことではないと感じている。勝敗という結果ではなく、何をやろうとしたのかということこそが重要なのではないのかと思うようになった。自分はどういう生き方をしようかと模索し、自分自身に妥協しなければ、結果が伴わないことは乗り越えられる。選挙に負けた後、自分の気持ちをどう作っていくかが人生だと思っている。
私は森さんと伊藤さんに「これからが新しい人生の始まりだぜ!」と言いに行こう。
「敗中勝機を知る」ことが人生の極意だと。

4月21日 久田見祭

パーマリンク 2013/04/23 10:23:54 著者: y-ishida2 メール

岐阜県加茂郡八百津町久田見に伝わる祭を見に行った。犬山から車でほぼ1時間。近くにありながら、今まで見たことがなかった。    八百津は木曽川と飛騨川の合流する地点、民謡木曽節にあるように木曽材をこの地で筏に組み、犬山まで流してくる中継地でもあった。  久田見祭はそんな、木曽と飛騨と美濃が混血し、尾張へ至る山間の小さな部落に凍結され、春風に解凍された絵巻物の世界だった。
「だんじり」と呼ぶ曳山が6台白髭神社と神明神社にお練りする。背中に大きな御幣を担いだ馬が「だんじり」を先導する。「だんしり」のからくり奉納の前に獅子が舞う。祭りの原型がきちんと継承されていて、まず感心した。ここの祭の一大特徴は、「糸切からくり」と呼ぶからくりの様式にあり、国の文化財指定になっている。
6台の「だんじり」は二輪車で高さ5メートルくらいの2層構造、彫り物もよし、水引幕も鮮やか。上階で舞うからくりは毎年演目を変える。同行した、ロボット研究者の末松さんが、これはまさに江戸時代のロボットコンテストだと言った。犬山祭も当初は二輪車の大八車で曳いた記録に接したことがあるが、ここでも祭りの原型を観る。年々過疎化している地域らしいが、逆にこの祭が過疎化に歯止めをかけていることは確実である。
祭りを楽しむ住民の表情がいい。ここの部落の人たちの一年はこの祭りのためにあるに違いない、2日間の祭のために絶えず準備し身構えていると思われる濃密な空気がそこにはあった。寄合が、人と人との絆を生み、支え合う共同体を形成しているのだ。そしてその中心にご先祖を祀る神社があり、歴史継承への求心力の精神性を育むという構図だ。
盛りを過ぎた桜が、はらはらと祭を楽しむわれわれの頭上に舞った。暮れ泥む帰り道、春風が山里に運んでゆくあの祭囃子は、体に染みついた日本の旋律であった。

4月18日 アウンサンスーチー

パーマリンク 2013/04/19 07:31:40 著者: y-ishida2 メール

ミャンマーの政治家アウンサンスーチーが日本を訪れている。テレビでインタビューを観た。合計15年間自宅軟禁され、自由の身を拘束されていたが、今日語った彼女の言葉は、静かで、落ち着きがあり、強く、感動した。
自宅軟禁中、彼女は読書とラジオで世界の友とつながり、考え、不自由はなかったと言う。毎日忙しそうに駆け回り、政策論や理屈などに血道をあげている多くの政治家たちが、何だか軽いものに思えてきた。
一番大切なことは、希望を持ち続けることだとも言った。彼女から自由を奪った軍事政権に対しても批判せず、あれは、自分の父親が作ったものであり、一種情愛を抱いているような表現すらあった。
私は、彼女の語りを聞きながら、南アフリカのネルソンマンデラを思い出していた。マンデラも、17年間投獄の憂き目に遭いながら、投獄した白人を憎まずといった。そして、この2人に共通するものは、徹底的に自分の自由を奪われ絶望の淵に立たされても、希望を失くさなかったということだ。インドのガンジーもそういう人物であったかもしれない。徹底した逆境に立たされた時こそ、思いや意志は反作用で硬く固まるのか。
世の中には、偉大な人生と人物がいる。小説の世界ではなくて、現実に生きている人物が存在する。

4月16日 国の予算

パーマリンク 2013/04/19 07:29:31 著者: y-ishida2 メール

平成25年度予算案が衆議院を通過した。予算に関しては、衆議院が参議院に優先するため、5月15日にこの予算は成立する。
92.6兆の予算。問題は年々膨張し続けていることだ。私は自治体の予算を12回編成したことがあるが、200億余の予算ですら、細かいところはなかなか目が届かない。家計や自分の会社の財務だったら、真剣に配慮するが、所詮自分の金ではないし、切迫感のない抽象的な使い方になる。  
私は親の家業の経営経験が多少あるが、売り上げ、銀行借り入れ、売掛金の回収など毎日真剣にならざるを得ない。気を抜いたらそれこそボクシングのように一瞬にしてダウン、倒産が待っている。
予算案を一瞥して率直に言うと、ある意味、国民に迎合する予算ではないのか。国と地方の借金合計は1000兆円に近づき、GDPの200パーセントに当る。こんな時、誰も痛みを伴わない予算を編成することがいいのかということだ。
国家予算の編成には、実に膨大な人たちがかかわる。全ての中央省庁、政党、議員、それに連携し全国自治体の全公務員、議員。国家予算を作るという作業は、私には想像を絶するイメージが膨らむ。一般会計以外の特別会計だとか独立行政法人なんかを入れたらほとんど全貌を把握できる人はいないのではないか。だから、一般の人が予算の細部を理解することはほとんどできない。
問題は、予算案を作る際全ての公務員は、熱心に仕事をしたい人物ほど予算を膨らますという構図だ。財務省だけは予算を削る役割を果たすが、あとは全員、仕事=予算増という方程式になっている。その方程式に対し、予算を絞るという仕事をするのは議員しかいない。その役割の議員が、これまた、仕事=予算を伸ばすという感覚が、歯止めのない借金体質を生んでいる。

4月14日 リベラルの会

パーマリンク 2013/04/15 12:11:57 著者: y-ishida2 メール

「リベラルの会」という旧社会党系の人たちの勉強会に出席。
若い時、政治のスタンスは自民党においていた。自民党代議士秘書が政治世界へのとば口になり、12年間の県会議員も自民党だった。時代は経済の高度成長期。市長になり、党籍を離れ、無所属でどの政党とも等距離で交際。愛知県知事選に挑戦した時、民主党の推薦が機会になり、衆議院議員は民主党。「コンクリートから人へ」という言葉がぴったりのパラダイムシフトだった。
私は自民党と民主党の違いを説明する時、こう表現する。「名古屋城は誰が作ったか?加藤清正と考えるのが自民党。名もなき職人たちが作ったと考えるのが民主党」と。私は若い頃は英雄豪傑に目が行ったが、人生経験を積むうちに世の中を動かすのは、心底名もなき大衆だと思うようになったのだ。
民主党の最大支持母体は連合であり、連合は、旧民社党と社会党の合流したものであるから、私の政治人脈は、ほぼ全政党にわたる。また私の個性かもしれないが、組織より人物にウエイト置いて交際してきた。
「リベラルの会」勉強会の会員になっている。自民党系の人たちはどうしても経済や景気の話に偏り、統治の立場からものを考える。一方、リベラルの会の人たちは、憲法論議や人権、格差がテーマで、大衆の側に立つ。私は、旧社会党系の人たちの純粋さ、権力に立ち向かう勇気に失ってはいけないものを感じる。
今日の議論は、今後民主党の行方や、今夏参議院選挙の争点についてだった。結論は民主党が憲法論議の中で9条をどう表現し党のコンセンサスをまとめるかということに極まった。もう「専守防衛」だけで平和論を維持することは無理だろうという意見もあった。    私の持論は「今こそローカリズム」。故郷と共同体の復権である。領土問題とTPPを除外すれば、一見保守と似てくる。

4月13日 明治村茶会

パーマリンク 2013/04/14 15:34:07 著者: y-ishida2 メール

私は長年「財団法人・明治村」の理事を務め、現在評議員だ。
その立場よりなにより、明治村が好きだ。私が犬山市長当時、明治村はまちづくりのヒントを色々与えてくれたし、自分の夢を実現もできた。「全市博物館構想」や、それとセットで、「生涯学習の町づくり」など明治村から発想した。「フィルムコミッション」「ボランティアガイド」など私の提案が、明治村で実った。
それはさておき、今日の「明治村茶会」は気分爽快也。この村は桜が終わると緑が萌え、百花繚乱の季を迎える。茶道は素人だが、今日「漱石・鴎外邸」での一服は至福の時だった。茶碗は「楽」の黒。お茶の濃いグリーンとの配色が絶妙で、息を飲むような美しさだった。茶道具の解説を詳しくしてくれたが、私は細かい知識よりも、感覚として、日本の茶道文化には深く魅せられる。あの野趣に富んだ茶室という建物と狭い空間の心地よさが好きだ。いびつで土そのものの素朴な茶碗が好きだ。寡黙な静寂が好きだ。
因みに、日本の城には必ず茶室がつきものであり、犬山城天守と茶室如庵はともに国宝のワンセットである。また茶の世界は、エコロジーの思想と通じるものがある。最近日本食がインターナショナルになりつつあるらしいが、日本の食文化の最も大切なところに茶の接待に供する懐石料理がある。
今日は、心の洗濯をした。「明治村茶会」は茶会の最高峰である。

4月11日 上京

パーマリンク 2013/04/12 12:07:05 著者: y-ishida2 メール

最近祭のことを書く事が多いが、いろいろ経験し、考え、今の日本はもう一度地域の共同体を復活しなければ崩壊していくという危機感に、日本の祭の見直しを考えるようになった。
その考えを政治評論家の森田実さんに話したら、即、そういう話なら亀井静香さんに話すべしとなり、その場から電話し、今日会うことになった。亀井さんとは面識はあるが、こういう話題で話すのは初めて。亀井さんは、東大卒の警察官僚でありながら、一面たたき上げの党人派のような人情家で、人を評価するに決して色眼鏡で見ない洞察力のあるリーダーだ。祭の研究をしたいという私の考えに全面的に賛同してくれたし、それよりも、人生を語り、実にわかりやすい人格で、好感を持った。
帰り道、銀座の新歌舞伎座を見に行った。思いつきだったので、建物だけ観察した。設計者隈研吾氏の解説は読んだことがあり納得したが、おおむね建築家は技術に寄りすぎる。私は単純に、新歌舞伎座を見て、何故木をもっと使わないのか不満に感じた。
最近この新歌舞伎座の再生を機会に歌舞伎ブームが起きた感がある。それはそれで、日本の伝統文化が国民に支持され結構な事であるが、歌舞伎の原点は農村に根差した地芝居にある。絶滅寸言の原点には目もくれず、ただただ銀座のみ話題にするということに私は何とも悲しさを感ずる。
歌舞伎役者は元来家柄の世襲制ではない。瓦乞食、最も下層な庶民の中から起きてきた世界に冠たる大衆の芸術が世界遺産となっているのだ。歌舞伎の名跡も、いつまでも世襲制の閉鎖社会を続けると必ず落とし穴にはまる気がする。中央集権国家のシステムのせいだと言うのは考え過ぎだろうか。

4月10日 水力発電

パーマリンク 2013/04/11 12:04:42 著者: y-ishida2 メール

名古屋大学の環境学者高野雅夫さんが下呂四美地区の国際保養地を見に来てくれた。小水力発電ができないものかという私の要請に応えてくれたのだ。高野さんは、名古屋大学の研究生と、アフリカで小水力発電の実践活動をしている。「エネルギー問題は生き方そのものだ」と、若者を田舎に向かわせる新しいライフスタイルを提唱し、私も大いに感化を受けた。
四美地元の人たちと懇談し、いいヒントがあった。小水力発電可能であり、更に豊富な間伐材を使い、薪ストーブを普及させることも十分おもしろい取り組みになるなど話題にした。要は、なんのために発電に取り組むかという目的意識を明確にしなければ、戦略が立たない。「地産地消」のライフスタイルを意識することだ。四美地域は、山に囲まれ、地域全体が緩やかに傾斜し、自分たちの生活エリアが一望できる環境にある。だからここの住民は、自分たちの町内のことを視覚的に考えることができる。もう少し皆さんと話し合い、方法を探る。
今更ながら気づいたことだが、ここの人は自分たちは「田舎者」だと思い込み、田舎は都会より遅れた、下に見られている地域だという先入観がある。今、都会よりこういった田舎に住むことに価値観を置く若者が少しずつ生じているという時代認識を理解することができない。だからいつまでたっても愛情は一杯だが、田舎の誇りと役割が見いだせずにいる。私の仕事の第一は、地球規模での環境問題による大きな時代の転換を訴え、田舎の人に自信を持たせることだ。
下呂は今桜が最高潮。市内各所の桜を妻と鑑賞。その時の写真をこのブログで紹介する。桜の魅力は短期間で散ってしまう所にある。散るを急ぐ刹那に美の本質を見るのか。北朝鮮の脅威や、応援に行った選挙の結果を安じながら、飛騨の逝く春を惜しんだ。

4月8日 天皇制

パーマリンク 2013/04/09 15:38:04 著者: y-ishida2 メール

最近国会の議論の中に憲法論議が浮上している。これには少なからぬ関心を抱く。衆議院議員の時、憲法記念日に、愛知県でJC主催の「日本国憲法を考える討論会」に民主党を代表してパネラーになったこともある。
今浮上している最大の論点は、第9条、戦争の放棄が対象だが、私は、第1条の天皇制についても深い関心を寄せている。
月刊誌「新潮45」3月号、山折哲雄氏の論文「皇太子殿下、ご退位なさいませ」を読んだ。続いて4月号で武田恒泰氏の反論を読み、いわゆるネット族が、皇太子妃について匿名でかなり品格を喪失した批判をしている事実を知った。
天皇制を考える時、私にとっての課題は2つある。1番目は民主主義との折り合いをどこでつけていくのか。シンボルとしての権威をどう守るかという問題が生ずる。それから、2つ目は、私が最近到達した日本の原点、神社・祭りとの関係とどう整合性と取るかということ。天皇制は弥生であり、祭は縄文だ。わが国の文明は縄文のほうが先にある。私の中でまだ明確な結論は出ていないが、今後勉強し、よく考え、何らかの自分なりの回答を出したいと思っている。
それにしても、日進月歩、ネット技術の進化はいいのか悪いのかわからなくなった。止めようのないイノベーションの流れかもしれないが、日本の天皇制に何らかの混乱をもたらす遠因を作るような気がする。
今夏の参議院選挙からネットによる選挙が導入されるが、これもいいのやら悪いのやら。素直に喜ぶ気持ちにはなれない。

4月7日 犬山祭

パーマリンク 2013/04/08 11:59:25 著者: y-ishida2 メール

国指定重要無形文化財である犬山祭は今年で380余年の伝統を有し、毎年4月の第一土日曜に開催する。しかし元来は、4月7日8日、針綱神社例祭日として固定されている。祭の車山(やま)を曳く若い衆の勤めの都合と観光客のために、日曜に合わせ、針綱神社は毎年宗教法人神社本庁に祭礼日の変更を届けているのだ。日本の祭の持つ伝統から言うと、1週間サイクルのキリスト教文明に妥協していると言える。
祭を前にし、梃子(てこ)と呼ぶ若い衆を集めて、安全祈願を執り行う際、今一度確認することがあると言って一講釈しておいた。祭とは、われわれのご先祖に出会う場だ。われわれは氏神、産土神である針綱神社を祭ることが、犬山祭の原点である。と。
日本民族の宗教には、何らテキストブックがない。毎年、祭りを実施することのみが、伝統と風習と礼儀作法の躾を伝承する。柳田国男の言葉を借りると、祭によって、飛び石のように地域の伝統が伝わる。
さて今年の犬山祭はかってない悪天候に襲われた。花に嵐の祭となり、ほとんど中止状態に追い込まれ、歴史に一齣を刻んだ。
閑話休題、祭に先立って清須市にある日吉神社宮司三輪隆裕さんを訪ね、日本の祭について意見を交換してきた。三輪さんは名古屋大学大学院で哲学を学ばれた神社界の頭脳みたいな存在で、「IARF」という世界宗教者組織の評議員を務めておられる。そもそもの日本民族の原点に戻って、現在の国際社会の中での日本の針路という視座で、私の考えは三輪さんとほぼ一致した。(三輪さんの論評は「日吉神社」でネット検索すればブログが読める)中国との関係を大切に考え、日本が米中の中に入り世界平和に貢献できると言う視点は、私と一致して同志を得た気持だった。

3月31日 ましたむら寄稿

パーマリンク 2013/04/01 09:16:32 著者: y-ishida2 メール

前号まで三回にわたって「まちづくり」と題して私の経験から、主に地方分権時代のまちづくり・国づくり論を語りました。今回は、その流れを受けて、下呂ならではの視点を考えます。
最近、政治・経済の世界では「アベノミクス」でもちきりです。世の中が明るくなり元気になることは結構なことですが、所詮株価や為替等、景気の問題はどこまでも不安定な要素が付きまといます。中央主権的で効率やスピード感のある変化を求める「ファスト文明」の価値観です。対して私の持論は、ゆっくり変化する「スロウ文化」です。今こそローカリズム、すなわち地方・地域に強く深い根を張った「ふるさと主義」です。
私は現在中部大学の客員教授を勤めていますが、中部大学は、名古屋大学・岐阜大学・三重大学と連携し、国連やユネスコの提唱するESD(持続可能な経済発展のための教育)というプログラムを推進しています。
そこで、このESDのフィールドステイション(実験地)に選んだのが萩原四美の「南飛騨国際保養地」なのです。ここは岐阜県の県有地ですから、今後岐阜県の支援を得なければなりませんが、なぜここを選んだのか述べたいと思います。
今後、地球規模で我々人類の最大のテーマは持続可能な社会を作っていくということ、すなわち1000年先の地球のことを考えるという生き方です。
世界的なシンクタンクローマクラブが50年先の世界を予想し「成長の限界」というレポートを発表、物議をかもしたのは1972年のことでした。今のままのスピードで経済成長すると2030年には世界経済は破綻し、世界人口は急激な減少に遭うであろう、と。言わば「持続可能な軌道から外れている」という警告の半鐘を鳴らしました。
それに対する反論もありましたものの、その後1992年リオデジャネイロで「環境サミット」が開催され国連を中心にした、「持続可能な経済発展」というエコロジー(地球生態系)の思想と目標が生まれたのです。
その実践のひとつが愛知万博であり、名古屋コップ10でした。そしてこのエコロジーの文脈の中に計画されたのが、「南飛騨国際保養地」構想です。
この構想が、何故今改めてクローズアップされなければならないのか述べたいと思います。
2年前の東日本大震災以降、わが国の喫緊の課題は資源とエネルギー問題になりました。わが国は無資源国、エネルギーのほとんどを海外からの輸入に頼らなければならないと考えられてきました。本当にそうでしょうか?日本の国土の7割は緑豊かな山林であり、豊饒な海域を入れると日本の領土は世界第6位の広さであるといわれます。そしてそこは太陽光、風力、水力、地熱、木材を利用するバイオなど自然の再生エネルギーの宝庫です。わが国は無資源国などでは決してありません。
そして私の言いたいのは、われわれの住む飛騨・下呂こそ、この自然エネルギーの宝庫ではありませんか!
四美の国際保養地こそ、そのモデル地区になりうるのです。
一方、国連が地球規模で考える持続可能な経済発展というテーマで、もう一つ重要な要素は食糧問題です。実は、国際保養地にある薬草園は国内外に卓越した施設です。薬草こそ、「スロウ文化」の典型ですし、持続可能な経済発展という概念の最も分かり易い対象ではないでしょうか。
ここで今後下呂の地で持続可能な将来のまちづくりに挑戦する際に注意しなければならないことを考えます。それは、行政の財政援助を当てにしないということです。分かりやすく言えば、補助金漬けにならないということです。この際、原発を誘致した自治体を教訓にしなければなりません。
今回は、国際保養地の可能性について述べましたが、次回から、そのほかにもある、下呂の宝について、よそ者しか気が付かない視点から述べたいと思っています。乞うご期待。

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