(秀吉が入城し、本陣を張り、小牧山・家康軍と対峙した。)
東海テレビ番組「おしろツアーズ」を観た。
案内人は「お城大好き」なロンドンブーツ1号2号の田村淳さん。
急遽「犬山(犬山城)観光特使」に任命された、という。
番組でいうとおり、戦国ビッグスリーに狙われたお城。
信長、秀吉、家康が、この城をいかに重要視したか・・。
信長は、上洛して天下を取る第一歩として、犬山城を橋頭堡に、中濃を攻略して稲葉城斉藤道三を攻め立てる。
秀吉は、信長亡き後、家康と覇権を賭して拮抗する。
家康軍の大軍が小牧山に陣を構えるに対し、秀吉自らも犬山城へ入城して本陣を張る。1584年の小牧長久手の戦いは6ヶ月の長期戦の後、和睦しドロー試合となる。
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」で家康は江戸へ国替えを忍従し、1590年秀吉の天下統一が成し遂げられる。
初代天下人の世は短く、秀吉亡き後1600年関ヶ原の戦いで、家康の世となると、
家康は江戸と今日の都の中間の尾張名護屋(名古屋)に御三家を配する。
さらに幕閣の成瀬氏を、尾張徳川家の付け家老職に兼務させ、犬山城主を居城と与える。
やがて大坂の米蔵(年貢米の一極集中管理)と並んで、直轄地:天領:木曾の木材集荷・取引と舟運の元締めを、代々の犬山城主に特命する。
全国各大名諸侯が、権威の象徴・築城と城下町つくりに競う中、当時の基幹資材産品=ヒノキ材木需要の供給量と、搬出・舟運を城下で監理したのが犬山城。
犬山城は関八州を除けば国内最大の肥沃な濃尾平野を、眼下に一望して諸国安寧の見張り台であり、木曽川舟運経済の監視管制塔。
その戦略的要塞=犬山城が、焼き討ち炎上させられることなく、430年以上にわたって、木曽川と、木曾の水の恵みの最大級の平野と、諸国へつながる伊勢湾という、経済の根幹・骨格を差し配し続けてきた。
犬山城の天守から、広大な濃尾平野を見晴らし、木曽川の流れを眼下に掌握するとき、あらためて軍事的経済的に無比の要所に位置することを思い知らされる・・。
【写真】いずれも東海テレビ「おしろツアーズ」から。