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第8回動画配信 衆議院議員の経験



21 衆議院議員に当選し政権交代に参加

  37歳で愛知県議会議員になり3期12間、犬山市長を3期12年間の合計24年間公職者として毎日全速力で走ってきたが、知事選挙に落選し、途端に生活のリズムが狂ってしまった。なんだかんだいっても公職者は毎日緊張して気の休まるところがない。街を歩いていても、やはり市民の視線が気になるものだ。公的な肩書をなくし寂しくはあったが、公職の緊張から解かれ半年余り前に述べたようなことをしていた。
  忘れもしないが平成19年10月13日。この日は私の62才の誕生日だからよくおぼえているのだが民主党の鳩山幹事長から突然携帯電話がかかってきて、「衆議院選挙にぜひ立候補してくれませんか!」
  実はこの突然の立候補要請には訳があった。私の住んでいる犬山市、そしてその南の小牧市と春日井市が衆議院愛知第6選挙区になる。この選挙区には前田雄吉という民主党の現職がいたのだが、彼は国会で業界から頼まれマルチ商法規制に反対する質問をして、行政に政治的圧力をかけた一件がメディアをにぎわした。ちょうどそのころの政局はおそらく2か月先、11月には解散があり、衆議院選挙が行はれるだろう、しかもこの選挙は民主党にとって政権交代をかけ一議席を争う天下分け目の関ヶ原と位置づけられ、緊迫した日々が続いていた。そこで民主党にとって少しでもマイナス要素になる前田雄吉氏は、当時民主党代表であった小沢一郎さんに説得され民主党を離党するという場面になった。予定される選挙まで2か月を切っていた。民主党愛知県連からも、赤松広隆衆議員をはじめ県連として立候補の要請を受けた。
  私は一週間返事を待ってもらい、いろいろな人の意見を聞いた。知事選挙であれだけ得票したのだから衆議院選は見送り次の知事選に備えるべきだという意見もかなりあった。千載一遇だという意見もあった。私の中にもさまざまな考えが交錯した。犬山市は中選挙区制時代江南、一宮、稲沢方面に入っていたが小選挙制になり犬山だけ小牧、春日井に線引きされ、しかも知事選挙で私は犬山、小牧、春日井で圧倒的に現職をリードし得票したのだ。このことは何かツキの神様がほほ笑んだような気がした。熟慮断行、立候補を決意した。
  平成19年内に予定されていた衆議院選挙は結局延び延びになり20年8月末にずれ込み、10か月の長きにわたって選挙運動をすることになる。
  若い頃、秘書として江崎真澄衆議院議員の選挙を2回取り仕切った経験はあったが、あの当時は中選挙区制で自民党、今回は自分自身の選挙でありかつ小選挙制の民主党だ。戦法がまるきり違う。私は、ライバルの丹羽秀樹氏をターゲットにするわけだが、正直丹羽さんはあまり意識になく、あくまでも攻撃の本丸は自民党だった。幸いなことに、この自民党麻生内閣はフラフラの迷走が続き崩壊寸前、マスコミの煽る政局に一喜一憂の毎日だった。
  私はそれまで選挙を7回経験しているが、県議選、市長選の6回は4月の陽気のいい時、知事選は2月の真冬、そして今回は真夏ときた。2月の選挙も街頭演説など特に厳しかったが、この真夏の選挙運動も辛いものがあった。灼熱の炎天下での個別訪問を連日繰り返し、夜は熱帯夜の寝苦しさも試練だ。そしてその激しい活動の全体を、すっぽりと勝負への不安が覆いかぶさる。選挙は心身ともに苛酷なエネルギーを消耗する。また資金もいる。この2年後、名古屋市長選挙に挑戦することになり、4年間に3回選挙をやるわけだが、正直言って、資金的には政党や多くの人の支援を受けたとはいうものの、基本は自分でやらなければならず己の資産は完全にスッカラカンとなり、「井戸塀」政治家を地で行くことになった。
  話は少々それるが、私はかねてから選挙を仏教徒の托鉢に似ていると言ってきた。一度肩書や己の身についたすべてを捨て去って乞食になることだ。お釈迦様もすべての地位財産を投げ捨てたところから悟りへの道が始まったように、政治家は選挙の時一度乞食になり托鉢して皆さんから金銭ではなく期待という票をいただくために歩くのだ。
  何と言っても私は選挙区に恵まれた。犬山はもちろん小牧、春日井で多くの新しい出会いがあり、多くの皆さんに助けられ、順調に支援の輪を広げた。そして、8月30日の投票日、NHKの出口調査でもうすでに当確となるくらいの勢いの16万余票の大量得票で衆議院議員に当選した。知事選挙の得票数をさらに伸ばしたし、春日井・小牧・犬山の三市ともそれぞれの自治体で行われた今までの選挙の誰よりも最高得票を記録した。私ばかりではなく、民主党の候補者は全国各地で圧勝した。愛知県なぞ、15ある選挙区すべて議席を独占、日本政治史に残る民主党による劇的な政権交代の選挙であった。
  国会議事堂衆議院の扉をくぐり、議員のバッチを胸につけ「石田芳弘」と書かれた登院の札を見た日、東京の空は真っ青に晴れ上がり、やや残暑を残すものの、爽やかな秋が始まっていた。