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17 城下町再生物語と成瀬家についての思い出

  日本という国がどんどん経済成長と人口の右肩上がりを続けている時代、逆に犬山市だけではなく日本中の町が中心市街地の空洞化という悩みを抱えこんだ。シャッター通りという言葉もあちらこちらで使われた。
  犬山城は天文6年(1537年)築城されて以来幾多の戦火を潜り抜け現在に残る日本最古の国宝であり、その城下町も戦災に会わず、基本的に江戸時代そのままの空間を残していた。ところが、戦後の町づくりは高速道路や郊外のショッピングセンターやら新興住宅開発に移り、不便で古臭いわが城下町の歴史的家屋は取り壊され駐車場になり、街並みがどんどん破壊されつつあった。
  県会議員の時「全国町並みゼミ」という市民団体を知る。愛知県の有松や足助に始まり、岐阜県は郡上、長野県は妻籠、馬籠、三重県は松阪等、あるいは北海道の小樽運河、広島県の鞆の浦等々全国の古い町並みを残そうという、いわば時代の流れに抗したスロー文化によるまちづくり運動であった。犬山に奥村邸という現在登録文化財の家の主人奥村正一さんがリーダーで、私もこの運動に共鳴、全国シンポジュームに参加した。
  一方、城下町の中心線になる二本の幹線道路は五メートルを一七メートルに拡幅する都市計画決定がされすでに10数年たっていたが、ぼちぼち事業が始まりかけていた。私は市長選挙の公約の一つにこの道路拡幅反対をうたった。
  結論から先にいうと、この道路拡幅はストップさせることができ、城下町はそのままの状態を保つことができた。そして、むしろ車の流入を抑制し、歩く街づくりに転換することにより城下町に賑わいが戻った。
  こう言ってしまうと簡単なようだが、この選挙公約の実現には七年の歳月を費やした。犬山へ「全国町並みゼミ」を誘致して、その席で拡幅反対の決議をしてもらったり、市民の有志とあちこちの町、例えば、長浜、彦根、高山、掛川、小布施などなどの成功例を視察に出かけたり、市民の気持ちを盛り上げるのに時間をかけ、いわゆる熟議の民主主義を進めた。それはまたまちづくりの楽しいプロセスでもあった。
  お陰様で中心市街地空洞化は分水嶺を超え、現在シャターは上がり、日曜、祭日また観光シーズンになるとびっくりするような人出を取り戻した。
  城下町再生のエネルギーにはいろいろ  
  要素があるが、犬山城の存在は決して軽く見ることはできない。次にその犬山城の話に移ろう。
  犬山城は我が国最古の国宝天守であるにもかかわらず成瀬家という江戸時代以来の個人城主の所有であった。そのことには今までだれ一人として疑いをはさむ者はいなかったが、ここに私は疑問を呈したのだ。私は司馬遼太郎という歴史作家が好きで多くの著作を読んだが、その中に、江戸時代城は将軍のものであってどんな大名でも所有するという感覚はなかったと書かれていた。殿様は丁度今の銀行の支店長のようなもので、本店(幕府)の辞令一本で移動させられたのだ、と。
  その通りだ!
  私はそのことを率直に成瀬さんに言ってみた。因みに成瀬さんという人物は犬山では「殿様」と呼ばれていたし、本人もそう自覚しているような存在であった。殿様は当然激怒し「お手打ちじゃ!」と三年間私は奇人扱いされた。私があえてそのことを表に持ち出したのは、天下の国宝は私物化することなく、広く国民・市民のものに帰するべきだと思ったからだ。
  結局この天下分け目のバトルは、殿様の娘さん淳子さんが中に入り解決、天守の他にほぼ七〇〇〇点を超える成瀬家所有の文物を財団法人化して寄付してくれた。
  「殿様」の成瀬正俊さんは江戸時代初代成瀬正成から数え十一代目に当たり、俳人でもありユーモアにあふれた知性的な人ではあった。東京大学の総長をやり文科大臣の有馬朗人さんが俳句の仲間ということで、成瀬さんの攻め方を教えてくれた。成瀬さんは私が犬山市長を辞めた年に亡くなったが、名誉市民でもあり、忘れえぬ人の一人である。
  全国にはお城好きの人が大勢いる。日本人は城が好きなのだ。天守閣を織田信長の時代までは「天主」と表記していたように、天主は文字どおり宇宙・天体の中心と考えられてきた。天主は北斗七星を背にして南方面に城下町をつくるのが天の法則にかなった城下町の作り方だった。要するに城には日本人の宗教観・精神性が凝縮されているのだ。そういう天の摂理のようなものにのっとって昔の城下町は作られているから城が求心力を発揮し城下町再生ができたと思っている。
  「城下町再生物語」と呼ぶゆえんである。