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20 東京財団・神野学園その他

  知事選挙に敗れたことは、単に選挙に当選できなかったという経験にとどまらず、政治家となって以来初めて突き当たった分厚い壁であった。
  しばらくは目標を見失い、夢遊病者のような日々が続いた。
  しかし、世間はありがたいもので、私が何をやろうとしたか見ていてくれた人はいた。まず、「名進研」という今や愛知県一の規模になった学習塾を経営する豊川正弘さんが、小学校を作りたいから協力して欲しいと呼びかけてくれた。私は政治家として、この日本から塾をなくしたいと思ってきた。学力世界一のフィンランドをはじめとする、いわゆる欧米型教育観には知識を商品化する日本のような塾産業は存在しない。いま、韓国や中国は塾がさかんと聞くが、韓国や中国経済の追い上げに危機感を抱く日本の経済界が、競争至上主義である塾産業の学力観を支えているのだ。しかし私は名進研の豊川さんに会って小学校を作るのが夢と言う情熱が伝わり、塾のノウハウを使って教育の分野に進出するのも教育に多様性が出てそれはそれでいいのではないかと思い、私の人脈を使い協力した。
  次いで、わが国最大のシンクタンク東京財団の加藤秀樹会長から研究員のお誘いが来た。加藤さんは民主党政権になって一躍有名になる「事業仕分け」の生みの親で、卓越したオールラウンドな政策通だ。この財団には犬山市長時代、教育に関するシンポジュームにパネラーとして呼ばれたご縁はあったが、このお誘いは正直嬉しかった。そして東京財団の研究員として、地方自治世界一といわれているスエーデンを視察に行くことになる。このスエーデン視察の経験は、その後、わが国の地方議会改革の問題意識として大きく花開くことになる。「地方議会改革論」については、名古屋市長選挙に立候補する動機になるので後程詳しく述べる。
  私の母校である同志社大学から、大学院の総合政策研究所で「マニフェスト」を講義してくれないかという話もきた。春季だけ8コマの講義だというので、京都へ行ける楽しさもあり引き受けた。だいたい政治という学問は、現実政治の後付けの理屈みたいなものと思っていたから、政治の実体験者として俺だって大学院生に講義できる自信はあった。ましてやマニフェストに関して私は「マニフェスト首長連盟」の共同代表であった。
  椙山女学園の理事を引き受けたのもこの頃のことだ。椙山女学園は女子教育専門で、幼稚園から大学院まですべての教育機関がそろった全国でもまれにみる個性的な学園だ。理事長の椙山正弘先生は愛知私学協会のドン的存在であり、教育家らしい人格者であった。椙山女学園という学校は、企業の側に立つと女子社員として採用したい人気ナンバーワン校と聞く。教育の力というものは、卒業して社会に出てからが勝負だとつくづく思った。
  そして最後に来たポストが、学校法人神野学園の理事長職だった。オーナーは神野哲州さんといい、根は経済人であるが、インテリジェンスのある教養人だと思った。神野さんは体調を壊し、私に後を託してくれた。私はこの仕事に価値を見出し、やる気に満ちていたが、理事の中にどうしても私を理解できない人物がいて4年の任期で残念ながら打ち切りになってしまった。
  神野学園関係者に送った手紙をここに披露し、私の心境とする。

  神野学園の皆さんへ
  拝啓 
  私はこの七月をもって神野学園を退職することになりました。
  四年間という期間ではありましたが、まずもって大変お世話になりましたことに、心よりお礼申し上げます。
  理事会の意志ということですが、私は私なりに神野学園の将来にかける夢がありましたので、率直に言って、心残りがして残念でなりません。

  私は政治という仕事に長年携わってきました。そして、その中で教育行政に最も力を注ぎ、それなりの実績も評価も多少残せたと自負しています。
  文科省の中央教育審議会委員や、衆議院の文教委員を務めまし、教育界のオーソリティーの多くと議論してきましたので、我が国の教育行政の流れは一応把握している自信はありました。
  そしてその流れの中から、神野学園の建学の精神と歴史を踏まえたオンリーワンの未来像を私なりに描き、それに向かって努力しようと思っていた矢先の今回の決定に対し、かえすがえす無念の気持ちが湧き上がってきます。

  私は現在の我が国の教育を考える時、どうしても改めなければならないのは、いわゆる偏差値の重視、大学への受験勉強中心主義だと考えてきました。学校は決して人と競争し、他人を蹴落す場所ではありません。また、教育は言うまでもなく公のものであり、天下国家のものです。学問の目的は、まず何をおいても社会のお役にたたなければなりません。実学であり、学問の後ろに社会や人生が見えねばなりません。
  神野学園にはそれがあったのです。
  私は神野学園の理事長を務めることに大変な誇りを持っていましたし、また大きな使命感も感じていました。神野学園こそが本物であると信じ、わが国の教育の新しい地平を開く可能性すらこの学園に感じていました。
  私案として「神野学園のビジョン」もお示しいたしました。
  私が反省するとしたら、そのテーマの議論を十分に、周りの皆さんとしなかったことかもしれません。あるいはこの私の考えが理事の一部の方には、ばかばかしい空想に思えたのかもしれません。
  まったくもって私の不徳の致すところ以外の何物でもありません。
  特に、私に期待していただいた、神野哲州さんには、ご期待に答えることができなかったことを、ひたすらお詫びするのみです。

  いうまでもありませんが、少子化社会の真っただなか私学経営は大変な時代を迎えています。
  単なる数合わせのための入学生の募集や、財務面の努力だけでは到底乗り切れるものではありません。
  繰り返しますが、神野学園ならではのオンリーワンの学力観、教育観を、学園全体が共有することだと強く思います。
  最後になりますが、神野学園のご発展並びに皆さんのご健勝を祈念し、お別れのご挨拶といたします。
                  敬具