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11 愛知県議の時代

  27歳の時「よし犬山市長になろう!」と思い立ったが、県会議員のチャンスが来たのでまずこれに挑戦し当選、政治家としてのスタートは議員から始まった。
  県会議員になりたての頃、秘書時代の下ずみが長かったので、独立し自分の自由が手に入りのびのびした解放感を味わう。
  人生の醍醐味は、自ら求めるところにある。反対を押し切り、敵を倒し、自分の手で掴み取るところにあるという優  勝劣敗の人生哲学のようなものが体に染み込んでしまったのもこの時の経験ゆえである。
  この考えについては、若気の至りであったと今思い返している。
  地方議員というのは、行政に直接タッチできるわけではない。このことは後年、名古屋市長選挙に立候補する大きな原因になるので後で詳しく述べる。要するに地方議会議員の仕事は、大きな政策論というよりは地域や支援者の利害に絡む事柄を実現することに熱心にならざるを得ない。
  一期生の時やった仕事で忘れられないことがある。それはカドミ問題だ。
  犬山市内、池野の採石場、明治村、長者町団地を開発したことにより、あたりの山からカドミが発生し、伝って流れ込んだ近辺の稲に黄化現象が現れた。カドミ米だ。これを食べるとイタイイタイ病になる。マスコミをにぎわせ、選挙の争点になった。
  当選して最初に取り組んだ仕事がこれだった。10億円ぐらいだっただろうか愛知県の事業であるが、国の補助事業というもので、カドミの原因者の自己負担もある。明治村とか採石業者が原因者にならなければこの事業は始まらない。ところが原因者になれば被害者から次々と訴訟が起こされる恐れありということで、原因者はなかなか判を押さなかった。原因者の負担率を下げ、その分国の負担を多くし解決への道が開かれた。
  カドミの被害を認定するのが環境部で、解決後の土地改良事業は農地部と分かれ、農地部にすれば余分な仕事を作ってくれるなというところ無きにしも非ずで役所の複雑な構造も垣間見た。私は採石業界や、地元の農家と接触し、行政の担当者と連日ミーティングを重ねた。特に採石業者をまとめてくれた丹羽由松さんとはこの仕事が縁になり親しい付き合いが始まった。
  政治、行政、地域住民、そして業者と複雑に絡み合う糸を切ったりつないだりするのが政治家の仕事と理解した。解決したときは、議員という役割の醍醐味を味わい、いい職業につけたと感激したことが忘れられない。
あれから25年以上たった今でもカドミで汚れた田んぼを改良し、再び米がとれた時農家のみんなが喜んでくれた顔を付近を通ると思いだす。
  県会議員としては上々の滑り出しだった。
  議員というものは議会で質問することがとても重要な仕事になる。最初の質問は自分なりに研究し、あまり早々と慌てないよう、ジックリ構えて初年度最後の議会に、犬山選出の議員らしく観光をテーマに選んだ。愛知県はもの作り優先の県であり、観光政策は全くほったらかしになっていたからその点をついた。この切り口は従来なかったのか、あくる日の新聞が取り上げた。するとその記事を読んだ渡辺栄三さんという人が訪ねてきて、名古屋港に南極観測船を誘致してくれと言ってきた。
  当時南極観測船フジは稼働期間を終え、欲しい自治体に払い下げることになっていた。私は早速この情報に反応し、鈴木知事に直接話した。5億円ほどの愛知県の買い物であったがこの話は実現し、南極観測船フジは今名古屋港に係留されているし、その後、南極物語で有名になった樺太犬タロー・ジローの銅像やら、水族館のペンギンやらと名古屋港は南極に関するものが集まるところとなり、観光の一スポットとなっている。
  一つの質問が次々と連鎖反応を生み、ここでも議員の仕事の面白さを味わった。そのおかげで私は愛知県と名古屋市が半々出資する名古屋港管理組合の議員を何度も務めた。
  愛知県議会の議会活動として、私は教育政策に最も関心をもち文教委員会に何度も属したし、委員長にもなった。おのずと県立高校の校長たちのグループとの付き合いも密接だった。教員という職業は真面目な人が多く、勉強会を頻繁に催すものだ。その種の会合によく出席したので、教育者ではないが、教育に熱心な政治家というイメージはこの頃生じた。
  もともと教師という職業を目指したこともあったので、心のどこかに教育というテーマは意識していた。この県会議員当時の経験が、のち犬山市長になったときの教育改革への情熱につながっていくことになる。
  選挙区犬山には愛知県文化財の指定を受けた犬山祭がある。私はこの祭りの行われる町内に生まれ、育っただけにこの祭りには思い入れがあり、県会議員の仕事としてどうしてもこの「犬山祭保存会」の会長職を務めたかった。祭りの主役である車山(やま)を修理するとき、修理代の半分は愛知県の負担、残りの半分は犬山市と車山所有の町内の折半というルールになっている。だから県会議員として地元の町内に貢献できる仕事だ、と思ったのだ。
  ところがこの一件は意外に骨が折れた。実は私の近所は、選挙の時現職の林さんのほうが強く、また松山市長の影響下にもあり、私の支持者は表面に出ることができなかった。いわば、選挙のシコリのようなものが残っていて、なかなか思いどおりに目的を達することができなかった。しかし苦労して就いたポストだけにその後この「犬山祭保存会」会長職は一生懸命務めたし、面白くやりがいもあった。
  県議時代政治家として最大のライバルは市長の松山邦夫さんだった。かっては、松山さんとはとても親しい間柄であり、なかなかな人物として尊敬もしていた。しかし、松山さんが市長選挙で小島さんにぶつかっていった時からこじれた。私は思い切り小島さんを応援したので、その復讐戦みたいな形で私の県議選で松山さんは林支持に回った。選挙の後遺症が後後まで尾を引き、選挙後も犬山市全体が石田派と松山派に二分するくらい支持者も両陣営に分かれた。
私も若く未熟であった。恩師江崎先生の薫陶も受け「政治家はあえて対立を好むべし」と考えるところもあり決して松山さんの下風に立たなかったし、対等にふるまった。常に直球勝負で絶対変化球は投げなかった。ここのところは多少の反省を込めて正直に言っている。
  しかしいま振り返ってみると、私は松山さんというよきライバルに育てられたような気がする。松山さんという力のある先輩に負けまいと歯を食いしばり張り合ったので私は成長した。
  人生はよきライバルに出会うことも大切である。
  私が最初の選挙で奇跡的に当選できたのは、後援者のお陰である。私の後援会はまれにみる強力な組織だった。最初の選挙運動は10か月間、来る日も来る日も毎日歩いた。おそらく市内全戸3回は戸別訪問したかもしれないくらい夫婦ともども足で歩き回った。その時の繋がりが土台となって、当選後一気に組織が出来上がった。
  後援会長は千田昇さんという実力者がなってくれた。選挙をやる者にとって後援会長は極めて重要な要素だ、千田さんは当時80歳を過ぎていたが、それだけに徳望もあり明治生まれの古風な一徹者で実に立派な会長だった。若いころは芸者遊びも盛んにした人で洒脱のところもあり私にとっては大恩人、忘れえぬ人である。
  選挙後は、千田さんから、馬場義春さんと言う私の父親三千のライオンズクラブの親友がなってくれた。
  とにかく、私は後援者に恵まれ、市内どこへ行っても常に大勢の市民に囲まれた。
  さてここまで、最初の選挙、そして県議時代といい私一人のことばかり述べてきたが、一人だけで進んできたわけではないことは言うまでもない。すべて妻、すなわち君の母さん鈴代の助けがあったからできたのである。
そのことはこれから述べていくことすべてがそうである。