since20110927  動画チラシ



19 愛知県知事選挙に挑戦

  ここのところは「挑戦」という本を書いたので、その前書きの文章を以下に引用することにする。

1「本来無一物」と「可能性への挑戦」
  書斎という空間は、その人の精神空間でもある。
  私は自分の書斎に「本来無一物」という禅語の軸を掛けている。臨済宗妙心寺派の壇徒なので、美濃正眼寺の管長であった頃の梶浦逸外老師にいただいたものだ。
  人間は何も無しの真裸で生まれ、又同じ状態で死んでゆく。
  名誉、名声、金銭、権力、争いなど特別煩悩の激しい政治世界で仕事をしてきた私は、常にこの言葉を頂門の一針としてわが身を戒めてきた。
  物欲や名誉欲、無益な闘争心を克服する為にこの「本来無一物」を毎日心に刻み続けてきた
  この掛軸とは別に、私の手書きで一言メモの紙片を机にはりつけている。
  「可能性への挑戦こそ人生の生きがいである」
  これは数年前、ノーベル賞博士江崎玲於奈さんの講演を聴いた時にメモをした言葉だ。
  平成19年2月4日投票日の愛知県知事選挙に私は立候補した。135万余票という大変なご支援をいただいたにもかかわらず僅差で負けた。
  ほぼ半年前に立候補を決意したが、決断するまで心は逡巡した。
  その時、私の心を支えたのはこの二つの言葉「本来無一物」と「可能性への挑戦こそ人生の生きがいである」だった。

  選挙というものは政治の凝縮だと思う。
  赤裸々な人間模様がもろにぶつかり合うゆえに、実に劇的な世界が生まれる。
  選挙は政治のハイライトであり、政治の流れは選挙で決まると言っても過言ではない。
  負けたとはいえ今回の愛知県知事選挙は、愛知県政史に一点の足跡を残したと思う。
  とはいえ敗れた後は正直言って意気消沈した。自分自身のことより、私とともに行動してくれた人たちと語り合った「改革」の夢が消えてしまったことに本当に落胆したからだ。
  目標と支えを無くし、夢遊病者のような毎日が続いた。
  しかしだんだん心の傷も癒えてきた。
  幸いな事に、今迄に私の本を何冊かまとめてくれているフリーライターの高野史枝さんが、選挙の取材とかかわっていただいた方々のインタビューを行っていた。私はこのインタビューを生かし、何故私が愛知県知事選挙に立候補し、どんな戦いをしたのかを記録として残しておきたくなった。本のタイトルに「挑戦」という言葉と同時に「証言」という言葉を使ったのには「こんなにすばらしい人たちが、こんな戦いをしてくれたことを知ってほしい」という思いが込められている。
  私は37才の時に愛知県議会議員に初当選し、3期12年愛知県議をつとめた。その後犬山市長を3期目任期途中で愛知県知事選に挑戦した。
  立候補を決意した理由を、最初に簡単に述べることによって、本書を出版した意図を明らかにさせていただきたい。

2「地方分権」という時代の思想
  私は平成7年(1995)4月犬山市長に就任した。その一月後の5月、国会は「地方分権」の決議を行った。
  わが国が140年前、明治政府という近代国家を創造して以来の中央集権から地方分権という時代の思想が、ここに始まったのである。
  犬山市長としての私の仕事は、この地方分権を宿命だと受け止めることだと感じた。
  平成11年から2期目の市政に入り、地方分権も沢山の法律が改正され、従来の国から地方自治体への機関委任事務が自治事務になったり、変化は徐々に出てきたが、最大の課題は「合併論」だった。
  合併を促進する為に、国は財政論一辺倒だった。地方分権の本質は地方の自立自尊にあるのに、国は交付金とか補助金という、いわば”金”で地方を釣ろうとした。これに乗るのは改革ではないと考え、市議会等と相談しながら、この課題に慎重を期した。
  全国では随分合併が進んで、3000余の自治体数はほぼ半減した。が、合併論議は賛否両論であり、合併すること自体は、地方分権の趣旨と何ら関係がないと私は今でも思っている。
  合併する、しないに関わらず、デモクラシーの原点に戻り、住民一人一人の主体的なまちづくりの形をつくること、国があって地方があるのではなく、地方が国を支えるという気概を持つことこそが地方分権の精神ではないのか。

  マニフェスト選挙と活動の場の広がり
  市長職3期目に入った。
  この時の選挙が印象的だ。それは「ローカルマニフェスト」を知り、マニフェスト選挙をやったことだ。それまでに私は自分の選挙は5回、他人の選挙はそれこそ何百回と手伝ってきたが、常に心の中では選挙に対し、知性とは程遠いものを感じていた。選挙はしがらみや感情の世界が大きな比重を占めるものだった。
  前三重県知事の北川正恭さんが「お願いから契約へ」というキャッチフレーズで、選挙でマニフェストを書く事を提唱され、私もすぐこの考えに共鳴し、真っ先にこの選挙文化の実践者となった。
  3期目、私は仕事の場を大きく広げる事になる。
  市長になった直後、東京のNPO「地域交流センター」が核となって「全国首長連携交流会」という組織が結成され、地方分権の時代潮流を受けて全国市町村長有志の勉強会ができた。私もお世話役をやらせていただき、会長を引き受けたりもした。
  会員の中から、勉強するだけではなく、われわれの議論を中央政府に提案したらどうかという声が上がり「提言、実践首長会」が生まれ、私が代表になった。
  内閣を始めとする各省、大臣に「提言」をしに行った。広く記者発表もした。

3三位一体改革とは
  この時期と小泉内閣の構造改革、特に「三位一体改革」が重なる。
  「三位一体改革」については歴史的にきわめて重要なテーマなので今一度振り返って述べる。
  わが国では中央政府と地方政府(県市町村)の仕事量は大きく言って4対6、一方税源は6対4で中央偏重だ。その逆ザヤを解消する為に中央から地方へ「補助金」と「交付金」という形で金が還流して来る。ところが特にこの「補助金」が問題で、「補助金」という金をめぐって中央は地方を精神的にコントロールし、地方は中央に対し従属したような感じを持つ。「自立」という地方分権の一番大切な精神を阻害する最大要因が、この「補助金」にある。
  この「補助金」をなくし、本来の仕事量に比例した「税源」が地方にあることが改革のあるべき姿である。
  地方が自前の税源を担保されてこそ、地方の自立自尊というデモクラシーは成熟するのである。
  「補助金」「交付金」で中央が地方をコントロールする手法から、地方への「税源移譲」これがいわゆる「三位一体改革」のスキームなのだ。これこそが地方分権、成熟したデモクラシー国家への道筋であると考える。

4全国知事会との議論
  中央対地方の確執が始まった。
  この大議論で機関車の役割を果たしたのは「全国知事会」だった。47人の知事の先頭に立ち「闘う知事会」の勇名を轟かせたのは岐阜県知事の梶原拓さんだった。
  ある日、この梶原さんから電話がかかってきた。君のやっている「提言、実践首長会」と知事たちといっしょに議論しようではないか。地方の現場は市町村長の方がよくわかる、という提案を受け、岩手県知事増田寛也さんを座長に「知事・市町村長有志の研究会」を作った。事務局は21世紀臨調という民間の公共政策研究機関にも応援してもらった。
  私にとってここで出会った人たち、そしてその議論は常に刺激的なものだったし、本当に勉強になった。

5私の挑戦
  小泉内閣における構造改革の流れの中で、地方分権、三位一体改革は、羊頭狗肉の感はまぬがれえず、特に補助金のテーマは地方の完敗に終わった。
  「三位一体論」を中心にして中央と地方の役割分担、税源の議論、その推移、そして16年度、17年度の犬山市の予算編成を経験し、この地方分権の渦中から、私は「日本の将来を変革するための大きな影響力を持つのは知事というポストだ」と痛感するに至った。
  ひるがえってわが愛知県政を見た時、万博は成功した、中部国際空港は出来た、経済は元気だ…とは言うものの、時代のテーマである地方分権の潮流の中で、県政における自立への意識は極めて低く、議論も低調だと言うしかない。
  愛知県議12年、犬山市長11年、選挙に当選すれば愛知県知事の仕事は十分やっていける自信はできた。
  よし、ここで知事という今わが国の地方分権の鍵を握るポストに挑戦してみよう。
  更に大きく、愛知県知事だったら全国知事会のリーダーとして日本の改革にも挑戦する道も開けるのではないか。
  可能性にかける「挑戦」への気持が日に日に高まり、私はついに知事選挙への名乗りをあげたのだった。
  心ならずも私は望む結果を得ることが出来なかった。しかしここに私の立候補の意図を明らかにすると共に、私と志を共にした方々のインタビューを「証言」として掲載する事で、私の「挑戦」の意図を浮かびあがらせようと考えたのである。