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第6回動画配信 県会議員時代



10 県議選に出馬

  さてこの章を書き始めると40年前のドラマが彷彿として思い出される。
  私は今まで9回選挙をやったが、すべての選挙の原点がこの最初の県議選であり、政治家石田芳弘を生んだのがこの選挙だ。
  「政治家にとって最良のテキストブックは選挙である」とは、かのウィンストン・チャーチルの名言だが、まさにこの選挙は私にとって生涯のテキストブックとなった。

  犬山市は昭和39年に5か町村の合併で市制を敷き、この時最初の県会議員選挙を行う。この最初の選挙は石田千太郎対松浦浅吉の一騎打ちとなり犬山の選挙史に残る一戦として語り継がれた。石田千太郎が当選し、3期務め、その後林銑二が後継、3期目に入っていた。この間5回無投票、犬山では24年間県議選が行われず、一部の有力者が話し合いで決めてしまう、いわば談合政治が続いていたのだ。
  この閉鎖状況に風穴をあけるため、私は決意し、その分厚い壁にぶつかっていった。
  現職林銑二は自民党県議団の重鎮、年も油の乗った五十代後半、しかもこの林さんの後ろには、現職松山市長をはじめ、商工会やら農協の組織が盤石のごとく構えていた。体制は巌のごとくそそり立っていた。加えて10年間仕えた江崎代議士はその時自民党愛知県連会長職にあり自民党所属の林県議には対抗できないという理由で応援はしてくれなかった。
  まさに四面楚歌の戦いであったが、私が政治の世界に入るきっかけとなった小島清三前市長とその支援者が私を熱烈に応援してくれた。というのは、この年の4年前、小島さんと松山さんが市長選挙で激突した選挙で林県議は松山陣営についた。小島さんはそのために負けたと思ったのだ。だから小島一派はそのリベンジを私に託した。選挙の心理は複雑だ。敵の敵は味方になる。理由はどうあろうと、溺れる者藁をも掴む心境だった。

  一般に犬山は城下町でもあり保守的な町と思われてきたが、決してそんなことはない。私の立候補を機会に若い世代、新しい風を求める人々が立ちあがった。世界中の人間は原則一緒、時代の新しさを求めているし、主人公は常に大衆だ。
  マスコミの予想は当初9対1くらいのワンサイドで私の勝ち目はほとんどなかった。私は投票日から逆算し10か月前から選挙運動をはじめだんだん追い上げた。とにかく必死の思いで毎日を過ごしたし、鈴代はじめ家族一丸火の玉になった。
  君は確か犬山北小学校の3年生ではなかったろうか。選挙中妹の彩子が、学校帰りに無邪気にも街宣車についてきたことを覚えている。
  日に日に私の支持者は全市に拡大を続け、大方の予想を裏切り私は大差をつけて現職に勝ち愛知県議会議員に当選を果たす。37歳の春だった。
  昭和58年愛知県の地方統一選挙で最も話題を読んだ選挙であった。