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09 代議士秘書の時代

  秘書になった昭和48年、総理大臣はあの田中角栄、列島改造論をひっさげ今太閤の角栄ブーム真っ盛りだった。そして江崎代議士はその内閣の自治大臣、飛ぶ鳥を落とす勢いの頃だった。私は東京で働きたかった。国会議事堂を仕事場に、政策の議論を戦わせ、代議士の鞄を持って、全国を駆け回るようなライフスタイルを思い描いていた。ところが私の任務は、選挙区をまわること、言い換えると地を這うような選挙対策であった。
  当時衆議院は中選挙区制で、愛知3区、北は犬山から南は弥冨までが選挙区、ちょうど木曽川が飛騨の山岳地帯から濃尾平野に視界を拡げ、愛知県と岐阜県の県境を南下し、伊勢湾に注ぐ尾張平野の西側にあたった。
  江崎事務所はその選挙区のほぼ真ん中一宮にあったので、一宮市を中心にして、毎日毎日選挙区の後援者の家を訪問したり、代議士に代わっていろいろな会合に出た。だから、選挙区中の公の建物、道路、川や橋、また人間関係のネットワーク、組織、諸団体の存在などなどすべて頭の中に入った。

  この10年間の地を這うような経験が、のち県会議員選挙に立候補したときの土台になった。世の中は地位や力のある一握りの人間によって動くんだという政治の実感も持った。あるいは、政治世界はこの世の人間関係の集合だな、という理解もした。
  東京で仕事ができなかったことは残念だったが、大学受験でも東京に蹴られ、俺の人生は東京には縁がないのだと自分に言い聞かせた。
  だがこのことが結局私の人生を故郷に結び付け、地方中心の生き方を宿命づけられたと思っている。
  人生は運命に導かれる。
  そしてその運命になるべく自然体で従い、生きていくことかな。運命に抗うより、運命に従い自分を変えたほうが賢明な生き方かも知れない。人生は自分の思い通りにはいかないことのほうがはるかに多いのだから。

  実際、この秘書生活10年はきつかった。ひたすら我慢を覚えた。休みがなかったし、そもそもすべての仕事が自発的ではなく他人に言われてやらされることだが、いちばん辛かったのは先生に叱られることだった。父親三千のところで述べたように、江崎先生はとても厳しい性格で、世にいうところの雷オヤジ、政治家だから外面はよかったがよく怒鳴り飛ばされた。
  江崎先生の、仕事に対する集中力と情熱や努力には頭が下がる思いを何度も感じたし、私にとっては一生の師ではあるが、あまりにも厳しいその性格は反面教師でもあった。たとえば「電話の長い奴は頭の悪い奴で説明が下手くそなんだ、適当に切れ」とか「役所との交渉は高飛車にいけ」「政治家は喧嘩ができない奴はなってはいけない」などなど、たくさんの片言隻句を思い出すが表現が直線的で、実学的だった。
  大物国会議員の秘書という仕事は、言ってみると「虎の威を借る狐」みたいなもので、虚栄心が満足され心地いい反面とても危険な落とし穴がある世界だ。秘書稼業に慣れてきてその危うさを感じ始め、そろそろ足を洗わねばならぬと思うようになった。
  犬山市から県議会議員に立候補という動きが出てきたのは、ちょうどそのころ、家業の酒屋を辞めて苦節10年の時だった。