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第7回動画配信 犬山市長時代



13 犬山市長選挙

  起死回生、衆議院選挙不出場からの挫折を乗り越え向かった犬山市長選挙の相手、松山邦夫さんについては少々語ったが、彼は北海道に生まれ中央大学を卒業後、犬山市で最大規模の企業「今仙電機」のオーナーである松山家の婿となり、社長に上りつめ、犬山市商工会の会長をやり市長になった、いわば犬山政界、経済界のトップたる群を抜いた実力者であった。
  最初は小島さんと選挙を戦い当選、その後四期敵なし、五期目に向かおうとしていたところへ私が立ちはだかるのだ。市会議員のほとんどが松山支持を打ち出したが、「石田会」の士気は大いに上がり「松山会」と五分五分の感じがした。私にとっても一か八かの勝負だったが、経緯から言って私には後がなくルビコン川を渡る気持ちであった。

  選挙で最も頼りになったのは後援会長になってもらった桑原正則さん。桑原さんは創業百年を超える材木会社「桑原木材」のオーナーであるが、個人的に高校の先輩にあたり相談しやすかった。この桑原さんがとても度胸の座った腹の太い人物で、その時の選挙情勢を冷静に分析し、作戦を立て進んでいった。
  この選挙でもう一人重要な役割を果たすのが、田中ゆきのり現犬山市長である。
  彼は衆議院の選挙が中選挙区時代江崎真澄のライバル海部俊樹の秘書を勤めていたので、私は彼を呼んで「江崎・海部の派閥争いを解消し、君に私の県議ポストを継承してもらいたいがどうか」という場面を作った。自民党の派閥政治の中で反江崎であり親松山であったこういう人物と交渉するのは政治世界ではまことに難しい筋の話ではあるが、田中ゆきのり氏は寝返って私と組むことになり、大切な後継問題はかたが付き、後顧の憂いなく市長選に向かった。市長選擧に先立つ二週間前の県会議員選挙で田中ゆきのり氏が当選し、私の考えたウルトラC作戦は見事あたった。

  こうやって、君に話すため過去のことを振り返ると正直、反省点も多々出てくる。
  この田中ゆきのり氏が、私が愛知県知事選挙に立候補した時以来まるきり私の真反対に回り私を苦しめる最大の存在になろうとは、人生の不条理を感ぜずにおれない。私は完全に彼の人物を見誤った。
  成功する人物のキャラクターを語呂合わせで「運・鈍・根」と表現することがある。運と根はすぐわかる言葉だが、鈍という言葉の奥は深い。小さなことにこせこせせず多少鈍感のほうが器が大きいという、禅語世界の言葉だ。私は田中氏に、大物の鈍と単なる鈍と見誤ってしまった。本当にわが身の未熟を反省している。

  それはさておき、この選挙は結果、大差で私の当選となり、宿願を果たし、第五代犬山市長に就任した。平成7年4月、49歳の春だった。