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第5回動画配信 家業を継ぐ〜秘書時代



08 父の家業を継ぎ犬山に戻る

  大学を出て、父の家業を継ぎ四年間酒屋をやることになるが、いきなり私がこの経営を背負い込むはめになる。
  卒業した年、昭和44年は大阪万博が開催され、日本の経済は高度成長のピークに達し、歴史的な繁栄を迎えた。
  まえにも述べたが、三千は扶桑に生まれ犬山の石田家に養子に来た。石田家は三千の養父、上野生まれの豊重が犬山に移住し酒の販売業「マルト商店」を開業したものだ。石田家はもともと運送業のような仕事をしていたとも聞いたことがある。酒屋は当時免許制であり、「マルト商店」は、卸業の免許を持ち、サッポロビールの特約店として、犬山を中心に近郷近在の酒屋にビールの卸売をしていた。また犬山は観光地として傑出しており、一昔前は木曽川ぞいに旅館が軒を連ねていたが、そのほとんどがお得意さんであった。この地のビール屋としては一世を風靡した感無きにしもあらずではあったが、三千が関の旅館業に力を入れるうちにどうしても「マルト商店」のほうの成績が悪くなってしまった。
  それに加えて私が大学を出たころ、流通革命といって、アメリカの影響を受けたスーパーマーケットが出現してきた。免許制にまもられた酒屋はその直撃を受け、時代の流れに取り残され始めていた。大量生産、大量消費、自由競争による値下げ合戦の中から、あのダイエーをはじめとするスーパーの時代が始まったのだ。

  当時酒屋の商売のやり方ほとんどが掛け売りで、集金は後回し、しかし仕入は手形決済なので資金繰りに苦しんだ。経済成長率は毎年十パーセント以上を維持し、日本中が人手不足で社員の確保にも苦労した。日本全体の経済は成長を続けているにもかかわらず、わが社は売り上げは伸びず、資金は常にショートし、人手はない、毎日毎日青息吐息の連続だった。
  しかしこの苦しい四年間の中で、その後のわが人生で最大の幸運となることが訪れた。
  それは、君の母親鈴代と結婚したことだ。
  母さんの鈴代とは見合い結婚、それもほんの偶然であり、一発で決まった。運命の神に導かれた。
  たしか夏目漱石の言葉だったと思うが、「男女の出会いは暗闇で突然鉢合わせしたようなものだ」と、言っているが、われわれの場合もそれに当たらずと言へど遠からずであった。

  ここでは鈴代と今井家の力なくしては、私の人生はなかったということだけ、まず言っておくにとどめる。
  何とも展望の開けない現状を脱しようと私と鈴代は必死で働いたよ。
  その中で君は生まれた。若さゆえの将来に対する野心や希望とともに、毎日の不安の渦巻く中から君は生れ出てきた。
  「マルト商店」の後を継ぎ二年たったころ、犬山市長選挙が始まった。岡部益衛さんという市長がちょっとした汚職事件を起こし辞職、その後任の選挙に確か三人の立候補があったが、その一人小島清三さんの息子たちととても懇意だったので選挙を手伝うことになる。
  このことが新しい人生を切り開いた。
  ここで大学時代の弁論部での経験が役に立ち、演説会で応援演説をしたのがみんなの目に留まったのだろう。小島さんが当選し、犬山市長になり、私も犬山の政治世界になんとなくデビューしたような気分だった。
  その気持ちにだんだん火がついて大きくなり、ついに政治家の道に一歩踏み込むことになる。
  たいていの人間は自分の故郷が好きだし、今住んでいる町に愛着を感じている。郷土愛という感情だ。この郷土愛を公私にわたり最もストレートに表現できる職業は何かと言ったら、それは政治家だ。
  「よし俺は犬山市長になる!」という考えが、稲妻に打たれるように私の心を襲ったのだ。

  小島さんの選挙で出会った江崎真澄衆議院議員に相談し、秘書になるのだが、その前に、商売がある。商売をしながら国会議員秘書はできない。ここはまた大変な難問だった。窮すれば通ず。天はちゃんと助け船をよこしてくれる。酒屋の商売に苦しみアドバイスを求めに行ったことがあった名古屋の「イズトク」という屋号の大きな酒類販売店経営者、梶田さんが、ビール卸の免許を、「マルト商店」の借金と同額で買い取ってくれたのだ。
  一方、私は当時会社勤めの弟俊二に協力を要請し、三千の仕事を手伝うことを頼んだ。もちろん私の考えは、当初周りには到底受け入れられるものではなかったが、鈴代と今井の親父が背中を押してくれた。
  これで後顧の憂いなく、政治の道に突き進む条件整備ができた。今にして思うと、かなり強引な船出だが、家族はよく付いてきてくれたし、多くの人に助けられた。