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12 細川護煕さんとの出会い

  県会議員になって10年たった頃、私の周りに公私にわたり政治的に大きな動きがでてきた。
  自民党の長期政権は金権腐敗を生み、政治の一新を求める国民の声が澎湃と湧き上がってきた。そしてその動きに押されるように浮上してきた人物が、熊本県知事、細川護煕さんだった。私もそのころの自民党の金権腐敗体質にはほとほと愛想を尽かしていたので朝日新聞の記者に紹介してもらって細川さんに会った。細川さんは私に会うなりに「日本新党から国政に立候補して欲しい、あなたのような地方出身の政治家が今こそ国政に必要だ」と言った。
  ちょうどその時期、恩師の江崎真澄先生が政界を引退する決断をしたので、タイミングもよし、自民党を飛び出して一丁勝負してみるかと気持ちを固めた。

  当時、中央政局は大きく動き小沢一郎、羽田勉、渡辺幸三ら自民党の若手リーダーも自民党を割り「新生党」というグループを誕生させ、私はそのグループとも接触した。最初の県議選の時とはもう一つ次元の高い全国規模の選挙世界に足を踏み入れ、連日興奮のるつぼの中でもがいたが、結末は立候補を断念した。
  というのは江崎先生が、子息の鉄磨氏に後継指名し、しかも小沢一郎氏と組んで「新生党」から立候補するといい、細川さんの「日本新党」とこの「新生党」は連携する。こうなったら私の立場はなくなってしまい、初めから混乱することは火を見るより明らかだと思い、立候補声明の直前で断念した。この顛末はニュースバリューのある一件で、大々的にマスコミをにぎわせた。
  さらに江崎先生はその時病床にあり、ベッドから「息子を頼む!息子を頼む!」という電話を懸けまくったようだ。自民党体質の金権腐敗に加えて世襲制の弊害を私はもろに受けたかたちだ。私はあの時江崎先生が病気でなかったら立候補に突き進んでいたと思っている、病の中から息子にバトンタッチしたいという親心を思い、それへの情に負けた。
  この時の総選挙は自民党政権が野に下るという大ドラマを演じ、反自民の連合政権が誕生し、一年間ほど政治がごたごたした。

  一方この政局はまた私の周りに大きな混乱を招いた。それまでの私の政治スタイルは常に攻めるのみ、押しの一本やり、極めてわかりやすかったが、この時初めてコツンとつかえ、引いたことによって支援者の中にも「いったい石田は何を考えているのかわからない」という声がちらほら上がってきた。私にとって、政治家となって初めて迎える挫折でありピンチであった。県議団の中では自民党を離れ、独りぼっちになり苦境に立たされたし、地元後援会も動揺し始め、後援会長の馬場さんも出てこなくなってしまった。すべてが裏目に出て、次は落選するかもしれないという不安が脳裏をよぎった。

  毎朝、寂光院へジョギングを兼ねてお参りに通った。寂光院の松平山主が、「人生万事塞翁が馬ですよ」と言って慰めてくれた。友人としてあの時の激励は忘れることができない。
  一年ぐらい地獄をさまよい、そこから這い出す明かりが見えてきたのは、もうこうなったら気持ちを切り替え、犬山市長に向かうしかないという切羽詰まった考えが芽生えたからだ。