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第2回動画配信 父・三千(みち)の話



02 三千(みち)の話

  譲と対話するにあたってまず私の父親すなわち君の祖父の話から始めよう。
  私の父、石田三千は明治39年9月1日、扶桑町小渕の高木家三男として生を受けた。いずれ私の代を中心にして石田家と、母さんの家系である今井家の家系図を作り君に渡そうと思っているが、いまは簡単に話すことにする。三千爺さんの生まれた明治39年といえば、日露戦争直後、近代日本史の中で戦争を通して日本という国が世界へ出て行った時代でもあった。三千は、犬山の石田家の養子となり、その後石田姓をわれわれは受け継ぐことになる。

  三千の人生でどうしても伝えておきたいことがある。三千は昭和12年勃発した盧溝橋事件から始まる日中戦争に出兵する。三千31歳の時だった。中国山西省北部,朔県(さっけん)で召集兵として連隊本部の人事係曹長の助手をしていたようだ。そこで三千は,理財という3,4歳の戦災孤児の一少年に憐憫と愛情の念を抱き日本に連れて帰る。その後、三千には私の姉佳千代と私と弟俊二がうまれることになるが、この理財は三千の本家高木家に入籍、「高木次郎」として日本人に帰化し、われわれ兄弟の一種義兄のような存在だった。三千爺さんは亡くなる少し前、脳軟化症にかかり、家族のすべてに記憶をなくしたが、この次郎だけは記憶から消えず「次郎!次郎!」と言って死んでいった。戦火の中、幼い生命を背中に背負い、故郷へ帰ってきた時の思いは決して途切れなかったのだろう。ここに私は三千の人生を貫いたヒューマニズムを見ることができるし、三千の人生に最大の尊敬を払うことができる。山崎豊子の小説で「大地の子」というのがある。日中戦争で中国大陸に残留を余儀なくされた日本人孤児を中国人が育てる実話に基づいたものだ。三千と次郎の物語は、その裏返しというか、日本人による中国人との愛情の証なのだ。

  この物語については、石丸清さんという三千の兵隊時代の上司が「日中親善の華・  石田三千氏の美挙」として会報に一文寄せている。一読して欲しい。
  三千は中国へは戦争に行ったものの、中国という国が好きだったし、中国の歴史には魅せられていた。私は子供の頃、父から三国志や水滸伝など、よく中国の話を聞かされたものだ。だから私も何となく知らず知らずのうちに、中国の歴史、文学になじみ、政治家となっても中国には好意を持ち続け、論語を座右の書として読み続けている。国政レベルで考えると、日本と中国の関係は今後ますます難しい局面を迎えることになるような気がするが、私はもちろんのこと、譲も爺さんの意志を継いで、「三千と次郎」の物語は語り継いで欲しいものだ。
  三千は気が長く温厚な人だった。怒ったり、大声を出したり、感情を露わにしたところを私は見たことがなかった。尋常高等小学校卒だから、今でいう義務教育を終えただけで奉公に出て実学で世を生き抜いたが、向上心と倫理観は、常に学ぶべきものがあった。
  三千は学歴こそなかったが生来語学に堪能だった。中国での兵隊としての仕事も、現地の人と会話することで、中国語を喋った。また敗戦後、我が国はGHQの支配下に置かれ、各務原に進駐軍のキャンプがあり、そこのマネージャーを数年間三千は勤めた。 私は昭和20年10月の生まれだから当時幼児であったが、父に仕事場へ連れていかれて大きな黒人の兵隊に抱き上げられたり、コカコーラを飲んだことが幼い時の記憶としてほのかに脳裏をかすめる。中国語にしろ、英語にしろ、三千は本や書物から学んだのではなく、すべて生身の人間と会話することから体得していったと思う。語学の才にたけ、実学の中に知的職業をこなした能力と向上心を見る。
  三千はGHQの仕事ののち、関で寿楽荘という旅館兼料理屋を開業する。何故その職種を選んだかは聞いていない。もともと三千は扶桑の生まれではあるが、関に移住した本家の高木家は長男の堯太郎が相続した。この尭太郎がいわゆるやり手だった。この地は「関の孫六」で有名な日本一の刃物の産地、彼は戦争のための軍刀を扱い成功したみたいだ。そして戦後は政界に進出、岐阜県の県議会議員となっている。三千はこの兄ととても仲が良く、兄の住まいの隣に旅館業を開業したものだと思う。この叔父の堯太郎はいかにも一族のドンという感じで、豪放磊落なキャラクターは今でも私の脳裏に数々の思い出として残っているし、政治家の道に入ったその後の人生に少なからぬ影響を受けた人物だ。
  三千は石田家では養子だったので、多少養父と折り合いが悪く、祖父の家業の酒屋より自分で始めた旅館業に身が入ったのではないだろうか、私の小学校時代まではほとんど関で仕事をし、犬山にはいなかった。私が中学生になってから三千は関の店を次郎にまかせて、犬山に帰ってきた。ちょうどそのころ犬山にライオンズクラブができ、三千はメンバーになり熱心に取り組んだ。思うに三千の人生は学校というコミュニティーを知らず仕事中心だったので、仕事を離れての友人付き合いがなかったが、ライオンズクラブに入って利害関係のない人間関係が一気に広がり毎日身近に楽しそうな父親を見た。後年政治家を目指し選挙に立候補したとき、三千のライオンズ人脈は強力な支持者となってくれた。
  三千は決して強いリーダーシップを示すことはなかったが、静かではあるが強く確実に私に伝達したものはある。
  父の人生からのメッセージの一つは、金銭感覚を常にクリーンにすること、ようするに、物欲に勝つことだ。この教えはその後政治の世界に入ってからもなんとか自分を律することができたと思っている。

  もう一つのメッセージ、地位を欲しがるな。これが難しかった。
  このことについて、私はこの際君に「告白」してみる気になった。
  実は、私は若いころ父三千の気が長く温厚な性格をむしろ優柔不断と感じ、ときには怒鳴ったり、激しく感情をぶつけるタイプに、むしろ男らしさを感じたのだ。明らかに、私は父のリーダーシップに弱さの不満を感じていた。
  私の政治の師になった、江崎真澄先生は「オレは信長タイプ」と自ら語るようにまるで三千の対極の存在として私の人生に現れた。後で、家業の酒屋を捨て政治の道に入る過程は話すが、27歳の春から10年間秘書として仕えた江崎真澄という人は政治家という職業を教えてくれた間違いもなく私の一方のオヤジであった。一方的に上から指示をする、よく怒る、感情をストレートにぶつける、ゆったりしたところがなく絶えず相手を緊張させる。もちろん当時の私の力量では仕方がない扱いだったかもしれないし、またあの梁山泊のような国会議員の世界で徒手空拳最後は副総理にまで上り詰めた人だから、並大抵の闘争心ではなかったとは思う、がしかしその仕事上の問題を超えて、人間として江崎先生は極端に人に厳しく、争いの好きな性格だった。しかし逆説的というか私は江崎先生に、実の親三千にはない強く激しい「オヤジ像」を見、逆にその強烈な自己主張と競争に勝ち抜く闘争心の世界に魅せられていったのだ。

  その後の私の人生は、君も知ってのとおり、37歳で独立、県会議員に挑戦、現職に勝ち、12年後、49歳の時に犬山市長に挑戦、これまた現職に勝った。その後も愛知県知事選挙、衆議院選挙、そして名古屋市長選挙と絶えずあえて現職に挑み、戦い続けてきた。
  人に勝つことに人生の活路を見出し、ポストに就くことに仕事の意義を見出してきた。長や議員以外にもたくさんの肩書をつけ、また肩書がなければ仕事ができないと思ってきた。肩書が人を呼び、また人が肩書を呼び、仕事が充実していった。言うまでもあるまいが、政治家という仕事は選挙に当選し肩書がつかなければそもそも成り立たない職業ではある。選挙で当選し、主権者の支持を得たという公的な認知が権力を行使できる正義となるのだ。だから私の頭の中には、仕事=選挙=当選=肩書=社会正義という方程式が刻み込まれてしまったのだ。肩書という権力を手中にしてないと何もできないような錯覚に陥ってしまう人生だ。多少誤解を生む言い回しかもしれないが、ドラッグに手を染めたスポーツ選手かミュージッシャンのようなものだ。

  石田芳弘という人生は、江崎真澄の人生に染められ政治家としての道を歩いてきた。それは勝者こそ正義の人生観、勝者が敗者を踏み台にする構図だ。数の多さこそが重要である、多数決至上主義の政治哲学だった。
  名古屋市長選挙に惨敗し、神野学園理事長職を失い、敗者となった。大きな壁にぶちあたり、今までの生き方では生きられないと悟るようになった。
  そこに、石田三千の人生が浮上してきた。三千の人生は明らかに無名の人生、肩書とは無縁の世界に生きた人だった。一方、江崎真澄の人生は勲一等の国家叙勲に輝く赫々たる人生だった。しかし今、私はこの二人のオヤジを並べて三千の生き方に舵を切ろうと思っている。戦場の中から敵対する相手国の幼児を連れて故郷へ帰り、育てた三千のヒューマニズムを紡ぎ続けたいと思う。あと、もうそんなに残り多くはない人生を、そういった生き方を目指してみたい心境になりつつある。