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中部大学でESDフォーラム開催。
「ESD」とは国連大学やユネスコのプログラムで、「持続可能な社会発展のための教育」という意味。エコロジー(生態系)をテーマにした地球規模の運動と考えていい。
2014年、名古屋市でESDの国際会議開催が決まっている。私は、この国際会議を仕組むため、中部大学の客員教授になった。具体的には、下呂にある南飛騨国際保養地構想と犬山城下町の2テーマに取り組んでみたいと思っている。
今日のフォーラムは愛知・岐阜・三重の三県から木曽三川上・中・下流の関係者30団体ほどが集まり、それぞれの活動状況を発表しあった。私は、犬山城下町再生を語った。
観光客の増大という経済的な指標ではなく、城下町に住み続ける住民のことを第一に考えるまちづくりこそ進めたい。「近き者喜び、遠き者来たる」論語の一節である。
日展鑑賞。若いころ秘書を務めた江崎代議士は美術品鑑賞が趣味だった。画家や彫刻家との交流もあったし、骨董屋へも同行したことがしばしばあった。で、私も議員となってから美術館へ行くことは趣味の一つとなり、毎年の日展は行くが、作品数と来場者が多すぎで正直静かに観賞できない。ざーと見て、私の好きな書の部門に時間を割くことにしている。書は好きだ。犬山祭保存会の会長をしていた時、祭りの幟旗をお習字の師である菅原智芳さんに書いてもらった。大きな幟旗が春風にはためき白地に黒々とした「犬山祭」の字が生きたように踊るさまを見た時から私は書の美しさに魅せられた。美術館の額に収まった書は、どんなに豪快なものでも、春風に舞い躍動したあの時の書に比べると死んでいる。
話はそれるが、今年の直木賞受賞作、安部龍太郎の「等伯」を読んだ。犬山にある国宝茶室「如庵」の書院で「四愛図襖」を見て長谷川等伯を知り、国立美術館で「山林図屏風」に接し、震えた。小説「等伯」を読んで今更ながら思ったが、美術品にも作家にも時代背景というものはおのずと出る。等伯は、信長、秀吉、家康の政治的激動を掻い潜り絵を描いた。文字どおり、生き死を懸けて創作に打ち込んだ。
日展という、言ってみればセレモニーみたいなところで打たれるような感動は望むべきではないかもしれないが、美術館全体に漂う作品群から、何となく不安定ではあるが、切迫した危機はない時代背景のようなものを感じ取った。
今春の下呂市長選挙に立候補しました石田芳弘です。その節は多くの市民の皆さんにご支援いただき、ありがとうございました。
選挙後、私は萩原町古関に住んでいますので、今後は下呂市民として、選挙とはまた違う観点からこの「ましたむら」で発言させていただくことにいたします。
昨年の秋、下呂市議会の一部の方たちの勉強会に招かれ、私の経験をお話した機会に市長選立候補の話題がでました。はじめは思いがけない話でしたが、その後 下呂について考え、勉強するうちに、だんだん下呂というまちの魅力に魅せられ、政治的情熱が湧き上がり、立候補を決意するに至ったのです。
その勉強の過程において大変影響を受けたのが、実はこのコミュニティー紙「ましたむら」だったのです。一号から全部丁寧に読みました。それで、下呂市のアウトラインが把握でき、下呂というまちのおもしろさがスーと腑に落ちたような気になりました。
私は 二十代半ばで政治の世界に身を投じ、愛知県議会議員、犬山市長、衆議院議員と公職を務めてきましたが、私の原点は地方政治であり、まちづくりです。まちづくりで私が最も大切にしたものは、そのまちの歴史や地理や文化でした。まちは決して法律や規則やマニュアルでできるものではありません。「ましたむら」から私は、下呂の歴史と地理とそこから生ずる文化をとてもわかりやすく理解することができました。そしてそれらの知識が人物を通して語られるということによって、まちの顔が見え、市民の息遣いが聞こえてきました。「ましたむら」はとてもレベルの高いコミュニティー紙であり、「ましたむら」に登場する人物はとても上質な市民の印象を抱いたのです。それはまた下呂というまちの市民レベルでもありました。
私の経験を少し話させてください。
犬山市長の時、市の広報紙は行政で作らず、民間のNPOで作ってもらいました。行政が作る文章は役所用語となり、また報告や説明の羅列で無味乾燥の嫌いは避けられず、どうしてもおもしろくないものになります。それに比べ、たとえ素人でも文章を書く事の好きな市民の書いた文章のほうが、はるかにわかりやすく、好評でした。市の広報紙は、行政の事務的な情報も不可欠ですから単純に比較はできませんが、下呂市の広報紙と「ましたむら」と読み比べるとき、下呂市民にとっては、はるかに「ましたむら」の方が楽しく下呂市のことを知ることができる気が私にはします。
市の広報紙を蒸留水とすると、「ましたむら」は天然水の魅力です。蒸留水は火や薬剤を通すから衛生上安全かもしれませんが、本来の味や匂いは死んでしまいます。天然水にはバクテリアが入っているかもしれないが、それゆえに味は生きています。われわれが飲みたくなるのは天然水です。
私は、地方行政に携わり、まちづくりというものの奥の深さを痛感してきましたが、行政主体のまちづくりか、市民主体かでまち全体の空気が変わってきます。市民が主体のまちづくりは、市民の顔が見えて、わかりやすく、まちの味と匂いがするものなのです。
実は平成7年に国会で決議された、「地方分権」という考えは画期的な時代の思想とも呼ぶべきものでした。全国統一の法律でまちを作るな、マニュアル行政から脱皮し自分たちのまちづくりは自分たちで考えろという自立の思想が土台にあるのです。さらに進んで「地域主権」とは国よりも県よりも、地域すなわちコミュニティーにこそ主権があるという、まさに民主主義の原点を言い表したものです。磁力のあるまちづくり、いいまちづくりというのはこんなところにヒントがあるように思います。
まず、「ましたむら」に最初に寄稿させていただいた機会に、コミュニティーを通してのまちづくりについての私見を述べました。
まちの字には町とか街という漢字が普通使われますが、最近ひらがなの「まち」の字を見かけます。ひらがなのまちには、祭りだとか文化だとか歴史などいわゆるソフトウェアーをひっくるめた、多様な市民活動のイメージが込められています。「都市計画」という言葉がありますが、この言葉はいわゆる役所用語で、市街化区域に限定した主に道路建設や公共施設などハードウェアーの街づくりのことです。「まちづくり」というのは総合的なものと考えますので、私はたいていひらがなのまちづくりという表現にしています。
このまちづくりで最も大きな影響を及ぼすのが、自治体どうしの合併です。
何故かというと、目に見えるハードウェアーはある程度財政力で解決できますが、目に見えないソフトウェアーはカネの問題ではない心の価値観が絡むのです。地域にはそれぞれ微妙に違った伝統や個性がありますから、合併したと言って、なにもかも一律基準の運用には馴染まないものもあります。まちづくりにとって大切なことは心の求心力です。
実は合併問題の落とし穴がそこにあるのです。
わが国は近代国家になって三度の自治体合併を経験してきました。一回目が明治政府による合併。二回目が戦後の大合併で、三度目が平成の合併です。この平成の合併前、全国にはほぼ3300の市町村がありましたが、合併を経た現在は半減しほぼ1700に整理されました。
合併論が台頭するときは必ずそれなりの時代背景があるものです。平成の合併論の背景には地方分権という時代の潮流がありました。わが国は明治以来、欧米に追い付け追い越せと劇的なスピードで近代化を成し遂げ、戦後は焼け野原から世界トップクラスの経済大国に急成長しましたが、それは極度にコントロールされた中央集権という体制があったからです。
ところが経済成長も頂上を極め、バブルが崩壊し、財政赤字が深刻になり、極端な少子高齢化社会とグローバル経済の時代背景を受け、国と地方の役割の見直しが必至となったのです。地方分権とは一言で言うと国と地方が対等の関係になるということ、自治体が国から財政的に自立するということです。画期的な時代思想と言ってもいいでしょう。最近大阪の橋下市長がメディアの寵児となった感がありますが、彼の言っている大阪都構想や道州制もこの地方分権の文脈の中に捉えることができます。
そこで下呂市のことです。
下呂市は8年前に五ヵ町村が合併し誕生しました。私は8年前下呂市には住んでいませんでしたので、当時の住民や、町長たちの気持ちを語ることはできませんが、相当悩みが深かったことは容易に想像できます。私は犬山市長としてこの合併問題には、真正面から取り組みました。われわれの場合は、犬山市・江南市・岩倉市、大口町・扶桑町が合併するという原案でした。それぞれの自治体にはそれぞれの事情がありますが、最大のキーは財政力の格差です。犬山市も賛否両論、市民の中にも市議会も両論あり綱引きが始まりましたが、私はいち早く、市長として合併はしないという考えを打ち出しました。もちろんこの私の考えに反対する意見も多々ありましたが、国からの特別な支援を当てにせず、犬山市だけで頑張ればやれるし、そのほうが市民の結束が強くなると思い、合併の協議から離脱しました。
犬山市は合併せず自立の生き方を選択しましたが、その後人口、観光客ともに増え、財政力も豊かになっています。合併しなかったデメリットは何も探し出すことはできません。一方下呂市は合併後、極端に人口が減少し、財政力は落ち込み、まちの求心力を失い、自治体としては正直半病人です。
下呂市のみならず、実は全国で合併をしてかえって、力が落ち、問題が発生した自治体のほうがに多いのです。私はこの現象は、合併を選択した自治体は結局「合併特例債」という中央政府のカネに目がくらんだからだと結論づけます。それは時代の思想である地方分権の意味が理解できず、国から自立の気概が薄く、市民の側に立った市政を本気になって進めようという気迫の欠如のように思えます。
まずそのことに気づくことが下呂市再生の一歩です。
下呂市に「ましたむら」というコミュニティー紙がある。そこへ私も寄稿しているので今日から3日間連続でそれを載せることにする。
「ましたむら」前号で合併論について私見を述べました。
今号では、その合併論の背景になった地方分権の時代背景を体験から語ります。
この地方分権の対極にあるのは中央集権です。わが国は145年前、幕藩体制による鎖国に終止符を打ち、明治国家を樹立しました。それまでの日本人にとって国という概念は、ふるさとのことでした。飛騨の国、美濃の国、尾張の国こそが自分たちの国でした。明治国家とは欧米先進国にモデルを求め、頭で考えたイメージの国づくりでした。そのためには中央集権が必要であり、東京は日本列島の配電盤だったのです。
明治期の国づくりの第二幕は、67年前第二次世界大戦の終戦時です。敗戦し国家主権を失い、GHQ支配下でつくられた草案が今の日本国憲法となりました。卓越した日本研究でベストセラーになったドキュメント「敗北を抱きしめて」の中で、著者ジョン・ダワーは戦後のわが国を「日本・アメリカハイブリットモデル」と呼んでいますが、戦後のわが国は憲法をはじめ、何でもかんでもアメリカ流が上から降りてきました。GHQは、大戦末期の国家総動員システムを使い上意下達、官僚主導、中央集権を逆に強め、戦後日本の国づくりを進めました。また、このやり方は極めて効率よく、集中的に戦後わが国の経済成長を中心とする国づくりに貢献することとなり、焼け野原から奇跡の復興を遂げ、20年そこそこで日本は世界の経済大国にのし上がるのです。
しかし、経済成長がピークを過ぎ、バブルが崩壊し、アメリカの力に陰りが見え始めた20世紀終末、そろそろこの上意下達、官僚主導、中央集権システムの限界が見え始めてきました。また、経済のグローバル化、人口の少子高齢化がこの傾向に拍車をかけます。
1995年5月、国会は地方分権を決議。この年こそ明治政府成立以来の国家主導による成長の分水嶺を越えた、国づくり第三幕が始まった時として記憶に留めなければなりません。2000年から導入された介護保険制度は、この文脈から始まった代表的な行政サービスです。 その後誕生した民主党政権のキーワードは「コンクリートから人へ」でした。この価値転換こそ、土建国家から福祉国家へ、成長から成熟へという大きな歴史の変化を踏まえた地方分権の政治転換でありましたが、この歴史の潮流は停滞気味です。
何故か?
この第三幕では地方政府の役どころが重要になってきたにもかかわらず、実は地方の意識がいまだ中央依存から脱しきれてないのです。例えば、「行政指導」という法律には書かれていない暗黙の基準みたいなものがあります。中央政府からの「命令ではない命令」です。地方分権以来この行政指導というのは原則無くなりましたが、多くの自治体はこの中央政府からの行政指導なしに、単独で判断する気迫がないのです。
昨年末の衆議院選挙を私は地方・中央両方の政治経験から、世論に耳を傾けました。しかしながら、国づくりの基盤となる地方分権とか地域主権という論議はほとんど素通りしてしまいました。国政や国会議員は、実態よりも何倍もの拡大鏡を当てて見られていますし、期待もされ過ぎです。国家を支え、静かではあるが確実に国家を変えていくのは、国民一人一人が身近に感じる自治体の感覚ではないでしょうか。地方が、自分のことは自分でやるという当たり前の感覚です。にもかかわらず、最大の落とし穴は、地方の意識が中央の指示待ちであるということです。
下呂市の場合、地方分権時代になってから行った合併というまちづくりにはメリット・ディメリット両方がありますが、中央政府からの指示待ちや援助頼みではなく、市民の自力でこれを解決していくのが21世紀の生き方だと思います。
薬草の勉強会開催。
下呂市萩原町の四美(しみ)に「南飛騨国際健康保養地」という岐阜県の施設がある。健康と医療というテーマを温泉地ならではの下呂で追及した優れた構想ではあるが、岐阜県の最近の財政事情から活動が縮小し続けている。民間の場合10年もやってみてジリ貧なら廃止だが、行政にやめる決断はなく、不良資産でも何となく残る。
逆に私は、今がチャンスと考えている。
「医療と健康」というテーマから、「持続可能な地球環境問題」にシフトしたらどうだろう。また、行政主導から地域主導に手法を切り替えれば、この事業は再生すると考える。
この保養地の地元四美地区はまだコミュニティー力がある。飛騨特有の故郷に対する愛着と結束力があると見る。さらに大きな要素は、2〇〇haに及ぶ豊かな県有林がこの施設のグランドである。今、100年先の地球規模で考えなければいけない人類の道徳律は環境問題であり、持続可能な経済発展というテーマであろう。この地は林業、農業、再生エネルギーなどを新しい視点から考える最適の拠点になると思う。
そこで、まず今日は、保養地の目玉である「薬草園」について中部大学の南基泰教授に講演をしてもらった。南さんは世界中の薬草を説明、この薬草園は日本一だという折り紙をつけてくれた。薬草というものはどういうものか、代表的な薬草の効能など説明。聴衆者は生活の中で薬草と向き合った環境に生きてきた人たちなので、自分の経験と照らし、興味深く聞き入っていたように思う。
今日の企画は、中部大学の企画でもあった。中部大学に事務局を持つ国連大学やユネスコのコンセプトとリンクするもので、これから先の道筋は壮大である。今後のことは、岐阜県の理解がいるが、方向性は間違っていないと信じて粘り強く努力してみる。
下呂の「鳳凰座歌舞伎」に文科省の補助事業を持ちかける。
歌舞伎は世界遺産に登録されている日本を代表する演劇だ。しかし大方の日本人は、歌舞伎は世襲制であり歌舞伎役者の梨園に生まれなければできない世界と思っている。ところが、そもそも歌舞伎の原点は、むしろ下層階級から役者が出、江戸時代は農村社会が支えた大衆性にある。先の大戦にわが国は敗戦し多くのものを失ったが、その一つに地方の歌舞伎文化がある。日本を占領したGHQは、義理人情世界の歌舞伎を数年間禁じた。その結果戦前には1000以上あった地歌舞伎は激減、今や数えるほどしか残らない。その絶滅寸前の地歌舞伎が2か所残るのが下呂なのだ。歴史の奇跡といっていい。
私は「犬山祭保存会」の会長を長年務め、伝統的文化財の保存継承に深い関心を持っているので、衆議院の文科委員を務めた時「日本伝統芸能振興会」の竹芝源一さんと知り合い、歌舞伎の意味を発見した。
岐阜県にも下呂市にも歌舞伎の支援を話してみたが、ほかの芸能と区別できず、行政はこの下呂の宝ともいうべき地歌舞伎に援助の強弱をつける能力がない。
今回竹芝さんの協力を得て、文科省の予算のめどが立ち、今日その説明に行く。「鳳凰座」のある地域の区長数名にも集まってもらった。区長の中には、歌舞伎の役者を「好きなことをやっている連中」という見方があった。ここが伝統文化を維持することの難しさだ。どうしても伝統文化を維持するためには公的な財政援助がいる、しかし税金を投入するとなると多くの人のコンセンサスがいる。区長の発言はそこだ。「われわれは伝統文化の継承者だから応援してくれ」という主張だけですべては治まらない。
不条理かもしれないが、使命感を持ったリーダーが、謙虚に頭を下げることかな。
芥川賞と直木賞の小説を読む。
芥川賞を受賞したのは75歳の女性黒田夏子。直木賞を受賞したのは23歳の男性朝井リョウ。男と女、75歳と23歳、芥川賞と直木賞。この真反対の対称の違いが読書欲をそそった。
黒田夏子「abさんご」1時間でギブアップ。芥川賞選考委員の蓮実重彦が「誰もが親しんでいる書き方とは幾分異なっているというだけの理由でこれを読まずに過ごせば、人は生きているということの意味の大半を見失いかねない」と評している。黒田夏子自身、半世紀かかってこの文体にたどり着いたと言っているが、文章の意味が分からなければ、人生の意味どころではあるまい。が、芥川賞とは、他人に向かって語ることではなく、自分の内面に語る純文学だという解説を聞いて解らないなりに納得。
朝井リョウ「何者」は大学生の就活を巡る人間模様。ネット社会における言葉と表現について、その世界のスペシャリスト小説家としての問題提起と受け取った。納得の読後感。
中国映画「孔子の教え」鑑賞。
私の座右の書は「論語」である。高校時代漢文の授業で論語を音読した。江戸時代の学習方法はまず「論語」の音読だった。これはこれなりに教育学的に大きな効果はある。「論語」の片言隻句に満ち溢れる言葉の力が知らず知らずのうちに体に染みこみ、経験に当たった時その言葉が思い起こされ、その言葉の意味を考える。生きる為の指標。それこそが「論語」の持つ力である。日本の政治家、財界人で「論語」の一説を座右の銘にしている人は多い。日本人のみならず、東アジア人の人生観・統治観は論語=儒教世界に大きな影響を受けている。
その点に関心を持ったので、私なりに「論語」は勉強してきた。「論語」の解説書は多く読んだ。「孔子」という小説を書いた井上靖は孔子のことを人類の教師と呼んだ。哲学者梅原猛は孔子を挫折した革命家と呼んだ。中国古代文学の泰斗白川静の「孔子伝」は人間孔子を描いて秀逸だった。
今日の映画は、孔子の発する言葉の力をどう表現するかを注目して見に行ったが、それは、「論語」という書物が最初から頭にあるのであって、映画の映画たる表現力は、映像にありと頭を切り替えた。この映画には激しい戦闘場面がふんだんに出てきた。孔子の偉大さは、あの春秋戦国時代、乱れに乱れた世の中に「仁」というヒューマニズムを高らかに掲げたことにある。私には、現在のアラブの紛争地のイメージと重なった。
「朝に道(正義が行われているという話)を聞かば夕べに死すとも可也」という孔子のかの有名な一句は、仁義なき紛争のさなかにあって強烈な光彩を放つ。
この映画の監督はフー・メイという女性と知った。孔子の他人と争わないという生き方をテーマに女性ならではの感性で映像化したものだと私は観た。
土岐市のライオンズクラブから講演を依頼された。メインストリートが、いわゆるシャッター通りになってしまったので何か参考意見を喋ってくれという。「まちづくりについて私の体験談」というテーマで「犬山城下町の再生物語」を語った。
主張の核心を今こそローカリズム、すなわち経済のグローバリズム批判、「ふるさと主義」の持論に置いた。
事前に土岐市のことを少々調べたが、なんと土岐市を訪れる最大の目玉施設は、あのアウトレットショッピングモールである。そして、土岐市の商店街の人は、あのアウトレットができてから商店街が寂しくなったことを証言している。ここに土岐市の街づくりの戦略ミスがある。その当時は良かれと思った選択が、しばらくするとマイナスの結果を招く例だ。あの類の郊外型大型ショッピング施設は、地域貢献はてんから頭にない。資本の論理優先で、まず20年くらいのスパンで、利潤が上がればいいという計算でスタートする。かつアウトレットという商法は、ブランド信仰の罠にはめるものだ。モノづくりの技術とコストカットが驚異的に進み、作りすぎた余分な商品を処分するための安売りにすぎない。20世紀末、日本経済の絶頂期消費文明の遺物であると私は思っている。
そんな施設がそのまちの一番の目玉になっていていいのかという私の主張を多少婉曲に論じたが、果たして伝わったか疑問を残した。
街のにぎわいを作るために、観光客が何人に増えたなどと言う一時的に粉飾可能な数字にこだわることはない。まちというものは、自然と生活と経済の包括的なバランスの中に持続可能な発展を見出すべきである。
講演後、酒席での懇談会に呼ばれた。あんたの話は少々抽象的だと指摘する人がいたが、具体策は皆さんで考えることこそが大切だと答えた。心底そう思う。