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今春の下呂市長選挙に立候補しました石田芳弘です。その節は多くの市民の皆さんにご支援いただき、ありがとうございました。
選挙後、私は萩原町古関に住んでいますので、今後は下呂市民として、選挙とはまた違う観点からこの「ましたむら」で発言させていただくことにいたします。
昨年の秋、下呂市議会の一部の方たちの勉強会に招かれ、私の経験をお話した機会に市長選立候補の話題がでました。はじめは思いがけない話でしたが、その後 下呂について考え、勉強するうちに、だんだん下呂というまちの魅力に魅せられ、政治的情熱が湧き上がり、立候補を決意するに至ったのです。
その勉強の過程において大変影響を受けたのが、実はこのコミュニティー紙「ましたむら」だったのです。一号から全部丁寧に読みました。それで、下呂市のアウトラインが把握でき、下呂というまちのおもしろさがスーと腑に落ちたような気になりました。
私は 二十代半ばで政治の世界に身を投じ、愛知県議会議員、犬山市長、衆議院議員と公職を務めてきましたが、私の原点は地方政治であり、まちづくりです。まちづくりで私が最も大切にしたものは、そのまちの歴史や地理や文化でした。まちは決して法律や規則やマニュアルでできるものではありません。「ましたむら」から私は、下呂の歴史と地理とそこから生ずる文化をとてもわかりやすく理解することができました。そしてそれらの知識が人物を通して語られるということによって、まちの顔が見え、市民の息遣いが聞こえてきました。「ましたむら」はとてもレベルの高いコミュニティー紙であり、「ましたむら」に登場する人物はとても上質な市民の印象を抱いたのです。それはまた下呂というまちの市民レベルでもありました。
私の経験を少し話させてください。
犬山市長の時、市の広報紙は行政で作らず、民間のNPOで作ってもらいました。行政が作る文章は役所用語となり、また報告や説明の羅列で無味乾燥の嫌いは避けられず、どうしてもおもしろくないものになります。それに比べ、たとえ素人でも文章を書く事の好きな市民の書いた文章のほうが、はるかにわかりやすく、好評でした。市の広報紙は、行政の事務的な情報も不可欠ですから単純に比較はできませんが、下呂市の広報紙と「ましたむら」と読み比べるとき、下呂市民にとっては、はるかに「ましたむら」の方が楽しく下呂市のことを知ることができる気が私にはします。
市の広報紙を蒸留水とすると、「ましたむら」は天然水の魅力です。蒸留水は火や薬剤を通すから衛生上安全かもしれませんが、本来の味や匂いは死んでしまいます。天然水にはバクテリアが入っているかもしれないが、それゆえに味は生きています。われわれが飲みたくなるのは天然水です。
私は、地方行政に携わり、まちづくりというものの奥の深さを痛感してきましたが、行政主体のまちづくりか、市民主体かでまち全体の空気が変わってきます。市民が主体のまちづくりは、市民の顔が見えて、わかりやすく、まちの味と匂いがするものなのです。
実は平成7年に国会で決議された、「地方分権」という考えは画期的な時代の思想とも呼ぶべきものでした。全国統一の法律でまちを作るな、マニュアル行政から脱皮し自分たちのまちづくりは自分たちで考えろという自立の思想が土台にあるのです。さらに進んで「地域主権」とは国よりも県よりも、地域すなわちコミュニティーにこそ主権があるという、まさに民主主義の原点を言い表したものです。磁力のあるまちづくり、いいまちづくりというのはこんなところにヒントがあるように思います。
まず、「ましたむら」に最初に寄稿させていただいた機会に、コミュニティーを通してのまちづくりについての私見を述べました。