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最近懇意になった中部大学の友人三浦陽一さんの依頼で、TPPのシンポジュームのコメンテーターを引き受けた。
10分程度のコメントだが、喋る骨子をまとめてみる。
シンポジュームのタイトルは「TPPのアメとムチ」。パネリストはジャーナリスト岩上安身氏と中部大教授高英求(こうよんぐ)氏。コーディネーターは三浦陽一中部大国際人間研究所長という構図。
まず、私は政治家としての体験談をスタンスにする。そして、国政と地方政治の2つの視点から語る。尚、TPPの本質は、アメリカによる、経済のグローバル化と捉えることを発言の前提とする。
1 私は2009年9月、民主党から衆議院議員になった。TPPの議論が浮上したのは翌2010年3月アメリカがTPPに参入した時からである。6月に菅政権が発足した。直後、菅さんが高らかに「TPPは第2の開国である」と宣言したことを鮮明に記憶している。それには大きな理由があった。そもそも民主党政権はアメリカのオバマ民主党政権誕生に引っ張られる形で政権交代を成し遂げた。ところが、鳩山、小沢両リーダーは、脱アメリカであり、東アジア構想に舵を切った。そこに、沖縄普天間、尖閣問題などが発生、アメリカ、中国双方との関係が不透明、悪化。
一方、日本の官僚組織は徹底した親アメリカ路線(官僚の留学経験はほとんどがアメリカ)であり、国内世論は嫌中国ときた。そこに誕生した菅内閣は心機一転、一気に親アメリカに舵を切ったと私は観ていた。
また私は、菅さんは経団連など経済界に秋波を送ったとみる。それは民主党政権としてこの際、経済界とのパイプが欲しかったのではないか。秋波というと文学的だが、日常用語で言うと経済界に色目を使ったのだ。
実は、消費税論議の前に、このTPPの議論の不整合性が、民主党の崩壊の前奏曲になったと私は思っている。
現在、自民党もTPPで内部は分裂しているが、自民党は党としての縛りが強固であり、民主党はそれが緩いゆえ分裂を生み、党は崩壊した。因みに、自民党は個人より組織を優先し、民主党は組織より個人を優先、と言ってもいい。 2 地方政治行政の経験から。
TPPの本質はグローバルエコノミーであると捉える。グローバルという事は地球儀でものを見るボーダレス、つまり国境とか境界を軽視するという視座であり、国家主権や地方自治という枠組みを重要視しないという価値観と思っていい。
私は長年自治体とは何か、われわれの生活空間であるまちとはいかにあるべきかを考え続けてきた。
まちづくりでは、法律や規則以上に心の分野、愛情とか誇り、言い換えると歴史や自然環境がまちの文化と個性を形成する。私は、イギリスのチェスタトンが言った「先祖の墓石にも投票権を与えよ」というイメージを支持したい。
個性ある自治体の経営は、境界を限定する、ボーダフルの視点が欠かせない。それにより遠心力より求心力、量より質、ゲゼルシャフト(競争社会)よりゲマインシャフト(相互扶助社会)を形成するまちづくりが可能だ。
具体的に考えてみる。世界一のグローバル都市はわが東京である。が、東京は競争至上主義、グローバルエコノミーの落とし穴に嵌まりつつあると私は心配している。東京都民のGDH・「幸せ度」は国内でも低位にある。私は、現在国家と東京が組んで目指す方向は人間中心主義、神をも恐れない自然征服思想で、持続不可能に思われる。
東京を見て、グローバルエコノミーは「新自由主義のためのドグマ」であるというグルーグマンの言葉に肯く。 3 解決を考える。
TPPの本質をアメリカによるグローバルエコノミーと捉えるならば、その弊害の対策はもう一度日本という国の成り立ちに戻ることだと考える。
競争社会ではなく、助け合い支え合いの日本的共同体の復活だ。そのためのヒントは、今でも持続している「日本の祭」の再評価である。日本の祭のベースには日本人の信仰心がある。祭に携わる人たちは必ずしも意識していないかもしれないが、経典も教祖もないのに今日まで持続してきた先祖崇拝、宗教とは呼べない習俗と文化に本質を見る。
また、多神崇拝、山川草木悉皆成仏、自然中心思想であり、今で言うエコロジーの宇宙観を体現しているのが日本の祭である。
私はこの際、人間中心の思想から自然中心の思想に転換し、祭りを通して日本人の信仰心と倫理としてのナショナリズムに息を吹き込むことがTPPへの反撃だと考える。
8月から至学館大学にある伊達コミュニケーション研究所の所長になり、「日本の祭」に取り組む。私は今まで、政治家という行動者として生きてきたから、大学の研究所と言え単なる書斎派では決してない。あくまで私の目指すのは、祭りの実践を通して社会への働きかけという行動にある。
遠い先の目標は、日本各地に存在する神社を中心とする伝統的な祭りを地域のコミュニティーの中心に位置づけ、列島の津々浦々祭りの持つ力によって、ふるさとを再生させることである。今こそローカリズムの実践だ。 そのための当面の目標として、まず今年中に、愛知・三重・岐阜3県の祭関係者を集めて今秋11月17日、シンポジュームを開く。基調講演は哲学者の中沢新一さん。パネラーは、京都祇園祭の吉田会長、学術宗教界を代表して国学院大学の茂木栄さん、文化庁から菊池調査官を決めた。このシンポジュームで一つの方向性を見出したい。そのための2回目の勉強会を今日開いた。
予め、祭関係者には祭と神社の関係について、祭りを維持するうえでの苦労、今後の問題点などの質問を出しておいて、それに答えてもらうという形で進行した。さすがに祭関係者は神社との関係、神や祭礼の意識は明確だった。祭関係者の発言の後、オブザーバーで出席依頼した識者の発言も交えて今日の議論を整理すると、今後この研究会の論点が、おぼろげながら見えてきた。
1 祭を自分たちのコミュニティーを固めて行く共同体形成、いわば内輪の論理に重心を置くのか、観光など祭を経済行為と考え外向きの論理に傾くのか。
2 祭を宗教と捉えるのか、宗教ではなく日本人の習俗・伝統文化と考えていくのか。
3 大都会の信仰心などかけらもない祭が最近どんどん若者を集め、都市の活性化に役立っているが、単なるイベントとしての祭をどう考えるか。
今日の出席者の中には、ささやかでも、世に知られなくても、自分たちだけでシッカリ伝統を守ってやっておればいいという論と、どんどん観光客が来るような工夫をしなければ、先細りになって消滅してしまうだろう言う論に分かれたような気がする。
私は、日本の祭の原点は先祖崇拝と自然への畏敬の念の二本柱で共同体を形成してきたのだから、祭りの主体者としては観光客や経済行為はほっておけばいいと考える。が、この個人的な見解は少々封印し、もう少し皆さんの意見に耳を傾けながら研究会の意思統一を図りたい。しかし、大学の研究所と言え、ただかくかくしかじかの意見がありますという考え方の並列ではなく、私に任された研究所なので一定の方向性を出し、行政やマスコミに提言したいと考えている。
当面11月のシンポジュームに集中して、考え方を絞っていく。
ドキュメンタリー映画「ハッピィー」を観る。
日本の祭研究で最近親しくなった宗教家三輪さんの推薦が、観てみたいと考えた理由だ。 映画館ではやらない自主上映であり、調べて会場の名古屋港ポートビル会議室へ行ったら、「ヒューマン・アカデミー」という専門学校主催の授業の一環みたいな企画であった。
トム・シャドヤックというアメリカの映画監督が「幸せな国ランキング」で経済力世界一のアメリカが、幸せ度23位という事に関心を持ったのがこの映画を作るきっかけになったらしい。6年間世界中を回って取ったドキュメンタリーだ。
インドの貧民街に生活する男の登場からこの映画はスタートする。職業は車引きの車夫。一日中劣悪な労働環境の重労働に耐え、帰宅するとバッラクのような家から家族全員が笑顔で迎える。男は「私は幸せだと」言う。
次はアメリカの女性だ。トラックにひかれ瀕死の重傷から生き延びるが、顔も体も醜い後遺症に陥る。絶望の淵から立ち上がり、人には悲劇を笑って乗り越える力があると言う。そして「私は幸せだ」。
ここで心理学者ティム・キャサー博士は解説する。「自分が持っていないものを考えるのではなく、何を持っているかを意識することが大切です」。「自分が幸せだと感じる時ドーパミンという快楽ホルモンが脳から分泌されるのです。」ポジティブ心理学といって最近の心理学研究の方向らしい。
この映画のプロデゥースに清水ハン栄治という日本人が加わっているので、日本の幸福度も取り上げる。トヨタの社員の話だ。しかし、それは、過労死で亡くなって悲嘆にくれるその妻の登場だ。世界的にかの有名な、東京地下鉄の通勤地獄をリアルに描写する。続いて、日本の野良着のような民族衣装を着た幸福度№1、ブータンの情報通信大臣の「家や車、洋服といった物質的なものでは心の安らぎを得られません」、というインタビューが入る。この映画は、GDP至上主義のわが国を皮肉る意図があるのではないかと穿ちたくなるような場面であった。
私は「自分の好きなことをやり、それが人に認められ、それで食べていけることだ」とか。「自分の仕事を愛し、家族を愛し、故郷を愛することだ。」等々という幸せ観を持って今まで生きてきたが、最近それは何だか経済も人口も国も自分自身も若くて成長期の幸福感のような気がして来た。今の日本と自分の年齢を考えると、幸福感ももう少し控えめで成熟したものにすべきではないか。
先週私の心から尊敬する人の一文が送られてきた。「毎日朝晩ご先祖に祈りをささげています。朝には、今日も一日良きことができますように。夜は、今日も一日元気で働けたことに感謝します。」と、あった。
到達すべき境地である。
漫画「はだしのゲン」が、松山市教育委員会により市内の図書館で自由に読めない決定がなされ、物議をかもした。すぐメディアが反応、教育論の立場を超えて歴史認識、表現の問題、戦争体験などの視点から議論が広がった。このニュースの詳細を聞いて自治体行政の経験から言うと、まず松山市の市長と教育長の主体性のない凡庸な姿が浮かんだ。最後は撤回したが、お粗末な決定をしたものだ。
が、まだこの漫画を読んでいなかったので、さっそくアマゾンに発注、半月以上たった今日やっと手に入り、全10巻読了するのにまる2日かかった。
まず漫画というものについて述べる。私は20年前、犬山祭のからくり人形の解説を文章で説明するより絵で描いたほうが子どもに分かり易いと考え、「蘇えったからくり人形」という著作を物した。漫画を友人の土屋さんというプロに書いてもらったが、ストーリーは土屋さんと相談しながら作った。そして登場人物のセリフは私が考えたが、これがとても面白い経験だった。一冊作ったくらいで知ったかぶりは慎みたいが、丁度映画の脚本のセリフを書くように平易な口語体で表現でき、漫画は小説などよりむしろ映画表現に似て、現実がより濃厚に理解されるという感想を持った。漫画「はだしのゲン」によって、原作者中沢啓治の強烈な原爆批判と反戦の思いは子どもたちに確実に伝わってくる。
本論に入る。戦前の軍国主義や大東亜戦争の戦争責任は昭和天皇にあるのではなく、天皇の意向を笠に着て、天皇を利用した政治家・軍人の指導者とその解釈を可能にした明治憲法にある。その点で、作家中沢啓治と私とは見解を異にするが、それはそれで貴重な体験談として尊重したい。
それ以外は、長崎の原爆被爆者としての主張に迫力があり、明快で正義感と生命力に富み、子供が読んだら戦争の残虐さ悲惨さが必ず理解できる物語だと思った。この本を子どもが読むと間違った価値観を持つと主張する人は教育の何たるかを理解していないか、子どもの想像力を見誤った人であろう。
更に、原子爆弾を落としたアメリカに対し執拗に批判を繰り返すこの歴史的証言が、世界中に翻訳されている普遍的な理由になっているのではないかと感じた。
今回の1件を巡って松江市教育委員会の決定を支持する意見もあるし、文科大臣も多少ぼやけた発言をしている。それらの言動に私は、何となくアメリカに対する遠慮を感じてしまう。こんな反米の鬼のような漫画を子どもに読ませてはならぬ、アメリカとはあえて事を荒立てないほうがいいという盲目的な追従の気持ちがあるのではないかと勘ぐってしまう。
東日本大震災の原発事故が起きた今、広島・長崎の原子爆弾の歴史が重なり、今回の論争は深いものを感ずる。
若者が悪ふざけをし、その写真をネットで発信、世間の顰蹙を買っている。少々の悪ふざけなら我慢もできようが、社会の秩序を乱したり、人に迷惑をかける事件にまでエスカレートしている。しかし当の若者は自分のしたことの意味が分からなくなってしまっているらしい。若気の至りという言葉は昔からあり若者は少々の悪ふざけはやるものだが、それをネットに載せて世間に見せるという事が、時代の事件になった。
人間には個人差はあるが目立ちたい、注目されたいという本質はある。その注目のされ方、目立ち方の鼎の軽重が分からない若者が世間の批判に会い、逆説的に言うとネット社会の犠牲者ではないかという気もする。
それは、ソーシャル・ネットワーク・メディアの持つ映像の力にあるような気がする。確かにネットの伝える写真、動画の威力は圧倒的な表現力を持つ。映像の力は一瞬にして、しかも労せずして情報を伝達してしまう。文章によって説明することなどまるで児戯に等しいような錯覚に陥る。大きな落とし穴だ。
ネット社会において、文を推敲するという事についても述べたい。ツウィター、FB,Eメイルなど、あの片言隻句には自分の考えは語れない。今どこにいる、これから何をする、今誰と会っている等、私に言わせるとどうでもいいことを主体性のないふにゃふにゃな文章で垂れ流ししているにすぎない。それはそれで、喫茶店で世間話しているレベルのことと考えればいいのかもしれないが、自分の主体性を持った意見を語るためには、ほどほどの字数の文章でなければ無理だ。
私は公職にいた時、役人の書く文章が長すぎるのに閉口した。説明文はなるべく簡潔に、資料は極力少なめに。私が行政職にある者に絶えず言ったことだ。しかし、最近の若者には逆のことを言いたくなった。文章はもう少し骨のあるものを長めに書け、と。
文科省が実施する全国学力テストの結果が発表された。
各都道府県の格差が縮小、学力の底上げがなされ、成果が上がっているという趣旨の報道であった。このことに一体何の意味があるのか私にはサッパリ理解できない。
犬山市長を務めていた最後の年にこの全国統一学力テストは提起された。私は瀬見井教育長にこの問題を聞くなり即刻、犬山市はこのテストを実施しない考えを打ち出した。文科省がその理由を聞きに跳んで来た。現場の教師も同席し、我々はこのテストを受けて学力が上がるとは考えていないと説明をしたら、黙って帰っていった。
このテストは法律ではないから自治体が実施する義務はない。が、私学を除いて全国公立の小・中学校でこのテストを実施しなかったのは犬山市のみであり、世間の耳目をそばだてた。
そもそも、学力というものは数値で測ることはできない。文科省はこのテストによって学力を上げるといっているがそれはイリュージョンだ。実はテストの成績の結果を数値化し、自治体同士の競争をさせるのが目的だ。この教育観の根底には、外からの圧力により、競争原理を作り、競わせることにより学力を上げるという思想がある。そんなことで真の学力が身につくものか。
教育の中で競争という概念をどう捉えるかは議論の分かれるところであるが、己に勝つという価値観ならいいが他人と競わせ人に勝つ競争はプラス面よりマイナス面のほうが大きいと考える。競争に勝ったものが正義であるという教育観を私は絶対に排除したい。
私は教育という視座より学習という視座でとらえ、人の内にある内発性を引き出すことに教え方の工夫をするのが教育の本筋だと思った。
「此れを知る者は此れを好む者にしかざるなり、此れを好む者は此れを楽しむ者にしかざるなり」
論語の一節である。学ぶ力は知ることより好む仕方には及びません。更に好む人よりそれを楽しんでしまう人にはかないませんよ、と解釈する。自らから取りに行く、その求める気持ちが真の学力を獲得するのだ。
採点が速くできるように、あらかじめ設定された解答に〇・×を記すだけのテストから、どうして学力が付くと思うのか。私は、全国の政治家、自治体の長たちも目を覚ましてくれと言いたい。もう少し教育というよりは学ぶという人間の持つ至高の行為に真剣に向き合って欲しい。
11月に至学館大学主催で日本の祭シンポジュームを開催する。その基調講演者に哲学者中沢新一さんの内諾を得たので、最近中沢さんの著作を読んでいる。9・11ニューヨークテロをきっかけに書かれた「緑の資本論」を読んだ。
イスラム教についての理解はこの一冊では不可能だが、大変興味を引かれたのは、イスラム教は利子(利潤)を否定するという事だ。ビジネスで利息を稼ぐことは教義に反する。現在の資本主義思想に支えられたグローバリズムそのものが、イスラム教の原理からすると受け入れられない。一方、歴史的なプロセスは飛ばすが、三位一体論を経てキリスト教と資本主義との相性は極めてよい。
ここで話は日本に移る。今日のニュースによると、わが国の国債残高はついに1000兆円を突破した。私は公職人生で、特に犬山市長の時、地方自治体の財政システムは国費を無駄遣いするように設計されていると痛感した。そのことは即、借金を安易に考える体質そのものであった。衆議院議員になって、更に国会の議論の中には、借金をして無駄遣いをどんどんした方がいいという理屈まであることを知らされた。
私は経済学の素人であるが、直感でハタと思い当たった。借金を是とする考えは、アメリカを中心とする新自由主義の思想の中に内蔵されているのだと。私が憂慮するのは、借金を気にしない生き方は必ず無駄遣いの浪費癖を生む。日本社会を見るがよい。あらゆるところにモノが溢れ、次から次へと新商品が購買欲をそそり、まだ十分使えるものがゴミの山を作っていく。これが資本主義の実相なのだ。そして際限ない欲望は、比例して膨らみ続ける借金に支えられる。
イスラム教について知ったかぶりは慎まねばならぬが、イスラムの経済学を学んでみたい。
昭和20年の生まれである私は毎年この日前後のマスコミ報道に注目する。大東亜戦争をどういう風に日本人は考え、マスコミは報道するか大きな関心がある。今年もおおむね反戦の論調が主流を占めた。特に気を引いたのは、いまだ終戦に至っていないというテレビ番組。それは沖縄の現状やTPPを見るとわが国は、何となくアメリカに逆らわなく上手に立ち回った方が楽で利口な生き方であると思っているという指摘だった。
ナルホド。日本はいまだ緩やかだがアメリカの植民地支配を受け入れている。国会議員も国民はそう思っているからと空気を読んだ、国民と政治家の共同合作かもしれない。
それにしても戦後はまだ終わっていないと特に感ずるのは靖国神社のことだ。結論から先に言うと、あの神社はもうそろそろ失くして欲しい。
何故、あんなに国際世論を騒がせてまで国会議員が大挙して参拝を繰り返すのか。
私の叔父は終戦直前サイパンで戦死した。その叔父が戦死するのと引き換えに私がこの世に生を受けたので、私はその叔父の生まれ変わりだと周りから言われて育った。だから私は靖国神社へは何度も参拝し、戦争と伯父の気持ちに思いを馳せてきた。しかし、政治世界に入り、先の大戦の経緯やその時の政治家の動向を私なりに検証するうちに、靖国神社は国家の戦争責任のシンボルのような気がしてきた。
日本民族の死生観は死者の霊は全て神になり讃えられるところとなるし、今日のわれわれの生活は、国家のため戦った英霊のお陰であることは百も承知している。が、それを祭るのがなぜ靖国でなければならないのか疑問が生じてきた。日本の祭に関心を持ち、私なりに日本民族の遺伝子に伝わる死生観を学んだ。それによると、古来日本人は死ぬとその死者の霊は故郷の山や森に返っていくと信じてきた。死者の霊は故郷の鎮守の森、産土神や氏神の集う故郷の神社に返すのが日本民族の本来の在り方ではないのか。そして、故郷のご先祖神として生者たちの幸せを見守る存在なのではないのか。故郷の祭やお盆はその生者と死者との邂逅の場であるのだ。
私は、叔父をいつまでも靖国神社に留め置き、毎年中・韓両国の批判にさらされ、右翼と左翼の激突の喧騒の中で終戦記念日を迎える現状にはやりきれない気持ちになる。靖国に眠る国家の為かけがえのない命を奉げた英霊たちは、完全に政治の道具にされている。
選挙の際、有権者は何を基準に投票するのか、最近の経験した選挙を顧みながら、自分なりに考えてみる。
というのは今日シリーズでやっているネット対談の相手に美濃加茂市長の藤井浩人さんを選んだ。(「石田芳弘地域主権」をネット検索しご覧いただきたい)美濃加茂の前市長渡邊直由さんとは友人であったので、現市長藤井さんとは以前から面識はあった。が、渡邊さんから、自分は体調の都合で辞めるが、後継に藤井君を指名したいと聞いた時、私は即座に、いかに何でも29歳では市長職は無理ではないか、と答えたことを思い出す。 結果は藤井君がベテラン市議経験者のライバルに圧勝し当選した。29歳の藤井さんは全国最年少の市長と大々的にメディアで扱われ、今や地方政治の世界ではヒーローとなり、美濃加茂市の紙価を高めた観がある。
が、私は周りのあまりの騒ぎ振りに全国最年少という事が一体何の意味がありますかと世間に反論したい気持ちでいた。
今日90分ほど対談、彼の言葉や考えを観察した。己の過去や経験、若かったころの記憶を思い出し、なんだか今日の対談は格別な思いに捕らわれた。立候補にあたって彼の純な動機、政治に対する真直ぐな姿勢が伝わってきて、自分の人生がもう一度戻ってきた様な晴れやかな気持ちにすらなった。市長職、政治の世界と言うものはそう単純なものではない。想定外の出来事の連続である。批判、裏切り、豹変がついて回る陰湿で嫌なオトナの世界でもある。彼のこれからの行く手には分厚く厳しい壁が待ち受けているに違いない。しかし、それを承知で、美濃加茂市民は彼を選んだのは、やはりあの純真さと一途な志を観たからであろう。
さて一方、先週私は大治町長選挙の応援に行った。応援したのは豊田さかえさんという女性だ。ライバルは村上まさお55歳自民系、広田幸治30歳維新推薦。3人とも町会議員経験者の三つ巴だった。結果は村上氏が当選し、豊田さんは意外に票が伸びず惨敗した。 私が応援する気になったのは、愛知県内に、開明的な女性運動をするグループがあり、「女性の首長を作る会」が結成され、その人たちの要請によるものだった。
私はそろそろわが国も、女性の政界進出を進めなければならないという論者だ。東京財団の研究員であった時、ヨーロッパ諸国の自治体を見学し、女性政治家の多いことに驚いた。わが国は、政界のみならず、経済界でも女性のリーダーが少なすぎる。そんな後進性に一石投じてみたく、応援した。
が、惨敗。原因を考えてみたが、豊田さんの市議四期、63歳という経験が、逆にハンディーになったのではないか。大治町というような小さい選挙区では、住民は候補者のすべてを知り尽くしている。豊田さんの訴えた女性ならではの政治の視点を住民は理屈では理解したかもしれないが、人間に新鮮味がなかったのではないのだろうか。未知なる魅力に欠けていたのではないだろうか。
私はかねてから、メディアが候補者の年齢を明記することに疑問を呈してきた。しかしながら、年齢を知ることではなく、若さというのは新鮮さと同義語であり、また未知の夢を見させてくれるところに有権者は惹かれるのかもしれない。
シニカルに言えば、不条理の条理と言えないことも無い。