アーカイブ: 2013年8月

8月28日 全国学力テスト

パーマリンク 2013/08/30 10:11:03 著者: y-ishida2 メール

文科省が実施する全国学力テストの結果が発表された。
各都道府県の格差が縮小、学力の底上げがなされ、成果が上がっているという趣旨の報道であった。このことに一体何の意味があるのか私にはサッパリ理解できない。
犬山市長を務めていた最後の年にこの全国統一学力テストは提起された。私は瀬見井教育長にこの問題を聞くなり即刻、犬山市はこのテストを実施しない考えを打ち出した。文科省がその理由を聞きに跳んで来た。現場の教師も同席し、我々はこのテストを受けて学力が上がるとは考えていないと説明をしたら、黙って帰っていった。
このテストは法律ではないから自治体が実施する義務はない。が、私学を除いて全国公立の小・中学校でこのテストを実施しなかったのは犬山市のみであり、世間の耳目をそばだてた。
そもそも、学力というものは数値で測ることはできない。文科省はこのテストによって学力を上げるといっているがそれはイリュージョンだ。実はテストの成績の結果を数値化し、自治体同士の競争をさせるのが目的だ。この教育観の根底には、外からの圧力により、競争原理を作り、競わせることにより学力を上げるという思想がある。そんなことで真の学力が身につくものか。
教育の中で競争という概念をどう捉えるかは議論の分かれるところであるが、己に勝つという価値観ならいいが他人と競わせ人に勝つ競争はプラス面よりマイナス面のほうが大きいと考える。競争に勝ったものが正義であるという教育観を私は絶対に排除したい。
私は教育という視座より学習という視座でとらえ、人の内にある内発性を引き出すことに教え方の工夫をするのが教育の本筋だと思った。
「此れを知る者は此れを好む者にしかざるなり、此れを好む者は此れを楽しむ者にしかざるなり」
論語の一節である。学ぶ力は知ることより好む仕方には及びません。更に好む人よりそれを楽しんでしまう人にはかないませんよ、と解釈する。自らから取りに行く、その求める気持ちが真の学力を獲得するのだ。
採点が速くできるように、あらかじめ設定された解答に〇・×を記すだけのテストから、どうして学力が付くと思うのか。私は、全国の政治家、自治体の長たちも目を覚ましてくれと言いたい。もう少し教育というよりは学ぶという人間の持つ至高の行為に真剣に向き合って欲しい。

8月19日 イスラム教

パーマリンク 2013/08/30 10:04:33 著者: y-ishida2 メール

11月に至学館大学主催で日本の祭シンポジュームを開催する。その基調講演者に哲学者中沢新一さんの内諾を得たので、最近中沢さんの著作を読んでいる。9・11ニューヨークテロをきっかけに書かれた「緑の資本論」を読んだ。
イスラム教についての理解はこの一冊では不可能だが、大変興味を引かれたのは、イスラム教は利子(利潤)を否定するという事だ。ビジネスで利息を稼ぐことは教義に反する。現在の資本主義思想に支えられたグローバリズムそのものが、イスラム教の原理からすると受け入れられない。一方、歴史的なプロセスは飛ばすが、三位一体論を経てキリスト教と資本主義との相性は極めてよい。
ここで話は日本に移る。今日のニュースによると、わが国の国債残高はついに1000兆円を突破した。私は公職人生で、特に犬山市長の時、地方自治体の財政システムは国費を無駄遣いするように設計されていると痛感した。そのことは即、借金を安易に考える体質そのものであった。衆議院議員になって、更に国会の議論の中には、借金をして無駄遣いをどんどんした方がいいという理屈まであることを知らされた。
私は経済学の素人であるが、直感でハタと思い当たった。借金を是とする考えは、アメリカを中心とする新自由主義の思想の中に内蔵されているのだと。私が憂慮するのは、借金を気にしない生き方は必ず無駄遣いの浪費癖を生む。日本社会を見るがよい。あらゆるところにモノが溢れ、次から次へと新商品が購買欲をそそり、まだ十分使えるものがゴミの山を作っていく。これが資本主義の実相なのだ。そして際限ない欲望は、比例して膨らみ続ける借金に支えられる。
イスラム教について知ったかぶりは慎まねばならぬが、イスラムの経済学を学んでみたい。

8月15日 終戦記念日

パーマリンク 2013/08/21 07:43:13 著者: y-ishida2 メール

昭和20年の生まれである私は毎年この日前後のマスコミ報道に注目する。大東亜戦争をどういう風に日本人は考え、マスコミは報道するか大きな関心がある。今年もおおむね反戦の論調が主流を占めた。特に気を引いたのは、いまだ終戦に至っていないというテレビ番組。それは沖縄の現状やTPPを見るとわが国は、何となくアメリカに逆らわなく上手に立ち回った方が楽で利口な生き方であると思っているという指摘だった。    
ナルホド。日本はいまだ緩やかだがアメリカの植民地支配を受け入れている。国会議員も国民はそう思っているからと空気を読んだ、国民と政治家の共同合作かもしれない。
それにしても戦後はまだ終わっていないと特に感ずるのは靖国神社のことだ。結論から先に言うと、あの神社はもうそろそろ失くして欲しい。
何故、あんなに国際世論を騒がせてまで国会議員が大挙して参拝を繰り返すのか。
私の叔父は終戦直前サイパンで戦死した。その叔父が戦死するのと引き換えに私がこの世に生を受けたので、私はその叔父の生まれ変わりだと周りから言われて育った。だから私は靖国神社へは何度も参拝し、戦争と伯父の気持ちに思いを馳せてきた。しかし、政治世界に入り、先の大戦の経緯やその時の政治家の動向を私なりに検証するうちに、靖国神社は国家の戦争責任のシンボルのような気がしてきた。
日本民族の死生観は死者の霊は全て神になり讃えられるところとなるし、今日のわれわれの生活は、国家のため戦った英霊のお陰であることは百も承知している。が、それを祭るのがなぜ靖国でなければならないのか疑問が生じてきた。日本の祭に関心を持ち、私なりに日本民族の遺伝子に伝わる死生観を学んだ。それによると、古来日本人は死ぬとその死者の霊は故郷の山や森に返っていくと信じてきた。死者の霊は故郷の鎮守の森、産土神や氏神の集う故郷の神社に返すのが日本民族の本来の在り方ではないのか。そして、故郷のご先祖神として生者たちの幸せを見守る存在なのではないのか。故郷の祭やお盆はその生者と死者との邂逅の場であるのだ。
私は、叔父をいつまでも靖国神社に留め置き、毎年中・韓両国の批判にさらされ、右翼と左翼の激突の喧騒の中で終戦記念日を迎える現状にはやりきれない気持ちになる。靖国に眠る国家の為かけがえのない命を奉げた英霊たちは、完全に政治の道具にされている。

8月8日 選挙の一考察

パーマリンク 2013/08/10 09:52:28 著者: y-ishida2 メール

選挙の際、有権者は何を基準に投票するのか、最近の経験した選挙を顧みながら、自分なりに考えてみる。
というのは今日シリーズでやっているネット対談の相手に美濃加茂市長の藤井浩人さんを選んだ。(「石田芳弘地域主権」をネット検索しご覧いただきたい)美濃加茂の前市長渡邊直由さんとは友人であったので、現市長藤井さんとは以前から面識はあった。が、渡邊さんから、自分は体調の都合で辞めるが、後継に藤井君を指名したいと聞いた時、私は即座に、いかに何でも29歳では市長職は無理ではないか、と答えたことを思い出す。        結果は藤井君がベテラン市議経験者のライバルに圧勝し当選した。29歳の藤井さんは全国最年少の市長と大々的にメディアで扱われ、今や地方政治の世界ではヒーローとなり、美濃加茂市の紙価を高めた観がある。
が、私は周りのあまりの騒ぎ振りに全国最年少という事が一体何の意味がありますかと世間に反論したい気持ちでいた。
今日90分ほど対談、彼の言葉や考えを観察した。己の過去や経験、若かったころの記憶を思い出し、なんだか今日の対談は格別な思いに捕らわれた。立候補にあたって彼の純な動機、政治に対する真直ぐな姿勢が伝わってきて、自分の人生がもう一度戻ってきた様な晴れやかな気持ちにすらなった。市長職、政治の世界と言うものはそう単純なものではない。想定外の出来事の連続である。批判、裏切り、豹変がついて回る陰湿で嫌なオトナの世界でもある。彼のこれからの行く手には分厚く厳しい壁が待ち受けているに違いない。しかし、それを承知で、美濃加茂市民は彼を選んだのは、やはりあの純真さと一途な志を観たからであろう。
さて一方、先週私は大治町長選挙の応援に行った。応援したのは豊田さかえさんという女性だ。ライバルは村上まさお55歳自民系、広田幸治30歳維新推薦。3人とも町会議員経験者の三つ巴だった。結果は村上氏が当選し、豊田さんは意外に票が伸びず惨敗した。  私が応援する気になったのは、愛知県内に、開明的な女性運動をするグループがあり、「女性の首長を作る会」が結成され、その人たちの要請によるものだった。
私はそろそろわが国も、女性の政界進出を進めなければならないという論者だ。東京財団の研究員であった時、ヨーロッパ諸国の自治体を見学し、女性政治家の多いことに驚いた。わが国は、政界のみならず、経済界でも女性のリーダーが少なすぎる。そんな後進性に一石投じてみたく、応援した。
が、惨敗。原因を考えてみたが、豊田さんの市議四期、63歳という経験が、逆にハンディーになったのではないか。大治町というような小さい選挙区では、住民は候補者のすべてを知り尽くしている。豊田さんの訴えた女性ならではの政治の視点を住民は理屈では理解したかもしれないが、人間に新鮮味がなかったのではないのだろうか。未知なる魅力に欠けていたのではないだろうか。
私はかねてから、メディアが候補者の年齢を明記することに疑問を呈してきた。しかしながら、年齢を知ることではなく、若さというのは新鮮さと同義語であり、また未知の夢を見させてくれるところに有権者は惹かれるのかもしれない。
シニカルに言えば、不条理の条理と言えないことも無い。

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