アーカイブ: 2014年8月

深川八幡祭

パーマリンク 2014/08/19 15:18:08 著者: y-ishida2 メール

 東京都江東区富岡にある富岡八幡宮8月15日の例祭を「深川八幡祭」と呼ぶ。
東京に住んでいない者には地名の由来から学習しなければならない。司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ「本所深川散歩」に、「とりあえず江戸っ子の産地じゃないかと思った」とある。徳川家康が江戸城を築城、世界のTOKYOの始まりだが、現在の富岡八幡の地は隅田川河口永代(えいたい)中州の開拓地であり、その開拓者が関西摂津の深川八郎衛門であったという。

火事と喧嘩は江戸の花。江戸はしょっちゅう火事があり、材木問屋は儲かった。あの紀伊国屋文左衛門もその一人だ。その根拠地が深川であり、その地の産土神として富岡八幡宮は1627年祀(まつ)られ、深川の八幡さまと江戸の人々から親しまれた。深川界隈は、材木を扱うゆえに鳶や火消などの宵越しの金は持たねえ職人気質が参集、江戸城から見て辰巳の方角でもあり、岡場所もでき「深川芸者」という粋で気風(きっぷ)のいい女性の代名詞も生まれたという。深川はそういう江戸っ子と呼ばれる人たちの故郷でもあり、富岡八幡は江戸っ子の護り神でもある。蛇足ながら、赤穂浪士は吉良邸討入りの最後の打ち合わせを富岡八幡の前の茶店でしたというし、相撲の興行も、この神社の勧請相撲から始まったという、江戸の文化と歴史が直結した神社だ。

白状すると、私の東京観は前川清の唄う「東京砂漠」だった。日本中の人と富を収奪し尽くし、混乱と喧騒と強欲と不人情と乾燥の荒野だった。東京は紛れもなく日本人の際限ない強欲が作ったバベルの塔であった。そのTOKYOに、神も存在したと思ったのは、深川の八幡さまと祭を知ったからだ。
デジャビュというフランス語は、既視体験と訳す。初めての体験であるのにもかかわらず、何となくなつかしさを覚えることだ。神社の放つ美しさと祭の貴さがこれだ。

今年(2014)は3年に1度の本祭りで神が乗った神輿を乗せた車が氏子町内隈なく60キロを1日かけて巡行する、鳳輦(ほうれん)渡御(とぎょ)と呼ぶ。翌日の神輿連合渡御は鳳輦渡御のお礼という意味を持つ。前者が神の立場から、後者が氏子の立場の祭表現か。各町内から53基の神輿が勢ぞろいし、8キロ余を1日中担いで回る。神輿1基の関係者を100人とみると5300人余の担ぎ手が路上を埋める。水かけ祭とも呼ぶが、全員法被(はっぴ)姿にねじり鉢巻き、白足袋の大集団が、ホースから浴びせる大量の水でびしょ濡れになり、ワッショイ ワッショイの声と共に神輿を担ぐことにより神憑(かみがか)って醸す世界は壮観なものだ。

最後に富岡八幡宮の女性宮司富岡長子さんの挨拶を紹介したい。「子供は地域の、国の宝です。幸い深川ではお年寄りを敬い、子供たちを街ぐるみで育てようとする、本来の日本人が持ち続けてきた道徳秩序が今もなお根強く息づいています。」

鳥出神社 鯨船行事

パーマリンク 2014/08/18 11:34:18 著者: y-ishida2 メール

日本民族の最大の宗教行事は正月とお盆である。そのお盆の8月15・16日、鳥出神社の鯨船行事は行われる。
三重県は明治の廃藩置県前までは伊賀と伊勢と志摩の3国に分かれていた。伊勢は更に北勢と南勢に分かれる。面白いことに、南勢地区の鯨船行事は実際の海で行うが、北勢は陸上で御座船を作って鯨と船の壮絶な戦いの演技を行う。
古墳から鯨の骨が出土するらしいから、鯨と日本人との付き合いは古い。だから捕鯨にまつわる祭は全国にあるが、三重県が一番多いそうだ。そして面白いのは、四日市を中心とするこの北勢地区では捕鯨の形跡がないのに鯨船行事があるという事である。5か所の神社に伝承され、8基の山車が登場するが、富田の鳥出神社に4基固まっているので、ここだけ国指定の文化財になり、この度、ユネスコの無形文化遺産候補にもなった。
南勢地方は現実の捕鯨を経験したので、鯨の解体を見る人にとっての祭は鯨の霊を慰める色彩が強い。が、この鳥出神社はいわばメタファー(隠喩)としての捕鯨なので、捕鯨の演技を展開する。ハタシと呼ばれ中心人物が大きく身体を使い大海原に鯨を追っかける、鯨を見つけてから鯨と格闘する船が大きくローリングする、振れの中にオドリコやロコギが倒れんばかりに揺れまわる、鯨に銛を打つ、鯨と船との格闘が始まる。ハタシもオドリもロコギも子供が演ずる。その体の動きは私には人形浄瑠璃のように見えた。鯨船はローリングしながら、太鼓を打ち鳴らし、大声で歌と踊りで囃し立てながら、あちらこちらを突きまくる。鯨突きという神事だ。
漁民による漁労儀礼というよりは、余興として鯨突きの真似が富貴を呼ぶ目出度さや災厄を払う儀礼としての意味を込めながら、次第に演劇的に組み立てられたところがこの祭の真骨頂と観た。
我々は全国どこの祭を観に行っても、せいぜい半日ぐらいしかそこには滞在しないだろう。祭の表面を観て、所詮群盲象を撫でるような評論しか出来ない。
私は、何処の祭に行っても多種類の資料は参照にする。祭の全貌を知るためにビデオを観ることもいい。鯨船行事も四日市市教育委員会から250頁にわたる調査報告書をいただき一読した。しかし、いくら資料が豊富でも、祭の神髄は祈りにある。神社の氏子たちが、観光客など関係なく行う神事にこそその祭が持続してきた力が潜んでいるのではないか。加えて大切なのは、祭に備えて歌や踊りの練習や山車に付属する備品の維持補修などを準備する時間だ。祭関係者のこの準備の時間と空間こそが共同体としての意識を持続させる。鯨船行事も、鎮火祭の神事を行うと聞いた。水面下の神事はなかなか外部の者にはわからないし、行政の資料に載りにくいが、本当は祭の岩盤を成す行事ではある。

揖斐まつり

パーマリンク 2014/08/18 11:31:11 著者: y-ishida2 メール

揖斐まつりは、岐阜県揖斐川町、三輪地区の氏神三輪神社の祭である。自治体名「揖斐川町」は木曽三川の一つ、揖斐川から来たと思われる。地方政治に長年かかわってきた私の観察だが、我々は有形無形無意識の内に故郷の川に大きく影響される。母なる川という言葉は正しく真理だ。一昔前の日本人の感覚では、国とはcountryとかnationではなくlandであり、都会が形成される前の山村社会では山川草木が住民のメンタリティを作ったと思う。揖斐川町は何となく私を惹きつける。
「揖斐川町は太古、大神(みわ)の里と称し、伊比(いび)の里とともに出雲族、神人(みわ)氏の蟠踞地で山麓の一寒村でありました。」から町史は書き出す。
三輪神社の例大祭揖斐まつりは5月3・4・5日に行われ、歴史の由緒を背負い神事を重んずる祭だ。            5月1日 三輪神社に幟(のぼり)が立つ     2日 町内からの神輿(みこし)のご神体受付    3日 小試(しん)楽(がく) 公民館で子ども歌舞伎上演 4日 試楽 神社前にて子供歌舞伎上演                  ヤマ(車偏に山)引き揃え        5日 本楽(ほんがく) 稚児役者お練り 神輿(みこし)お旅(たび)            子供歌舞伎 ヤマ引き回し
*お旅とは神が降臨した神輿を担いで氏子の住むエリアを巡行しお祓(はら)いすること   
曳山は5町内から繰り出す。ここではヤマと呼び国語辞典にはない車偏に山の字を書く。 若い衆が神輿の巡幸の時大声で民謡のような「おばば」を唄いながら担いでゆく。揖斐川町が発祥のこの唄を私も子供の頃故郷の川祭りで唄ったことがある。「オババドッコイキャルナーア ナーナナ 嫁ノ在所エナー 三升樽サーゲテ ソーラバエ」という何とも長閑(のどか)なメロディは、意味は解らなかったが少年の時の祭の記憶と共に、私の体に染みついている。祭の遺伝子は確実に子ども達に引き継がれる。
衣斐祭の楽しかったのは子供歌舞伎だ。ヤマを曳き出す5町内で毎年順番を決めて歌舞伎を担当する。町内の公民館で上演したり、ヤマの上で上演したり、本楽の日は神社の前で演ずる。
現在のように家柄の世襲制のみではなく、瓦乞食といわれる下層の大衆の中から生まれた文化であった地芝居歌舞伎も、世界遺産であることを知る人は少ない。実は戦前まで、全国に歌舞伎小屋は1500余あったが、敗戦によりGHGは歌舞伎の上演を3年間禁じた。歌舞伎はそのほとんどが復讐劇であり、日本人の心情の根っこを表現ずる故に、アメリカは恐れたと言われる。
それによって大衆演劇としての歌舞伎は壊滅し今は50そこそこの小屋が残るのみとなったが、岐阜県が最多だ。歌舞伎には我が国の芸能と様式のすべてが入ってきているのだが、どうも今の日本人は歌舞伎より西洋のオペラのほうが詳しくなってしまった。
祭を見ることは「日本人」を思い出させる。

桑名 石取祭

パーマリンク 2014/08/18 11:28:58 著者: y-ishida2 メール

「石」を神と捉えるのがこの祭りの名の由来である。桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を取って氏神である春日神社に奉納する祭。春日神社とは奈良春日社を本社とする藤原一族の氏神であるが、春日神社は桑名の産(うぶ)土(すな)桑名神社に勧請(かんじょう)したものである。ここのところが日本の神社の面白いところで、全国どこの神社も、その土地の産土神社に、有名な神を簡単にしかも幾柱も勧請してくる。
祭を見ると、つくづく多神教の日本人の信仰心を見てしまう。別の言い方をすると日本人は何でもかんでも無原則に受け入れる「ごった煮」のような文化を持つ民族ではないかという気がする。
桑名という地について考える。とても特徴のある、力のあるスポットだ。地勢的には日本一の大河川、木曽三川の合流地点であり、伊勢湾の入り口に当たる。列島を東西に分ける重要な港町として古来より栄えた。日本史には日本書紀に豪族桑名首(くわなおびと)として登場する。江戸期には東海道五十三次42番目の宿として栄え、幕末期は佐幕派の中核となる。因みに、明治政府は佐幕派となった藩は県都の名前を県名にさせなかったから、日本中の県都名を聞くと、勤王派か佐幕派か一目瞭然。従って、三重県の県都は四日市市である。
祭はその土地の過去を背負う。いかにも、この石取祭には桑名の土地と歴史の重層性を読み取ることができて興味深かい。
37台の曳山(ひきやま)はこの祭りでは祭車(さいしゃ)と呼ぶ。マスコミ報道などで曳山のことを十派一からげに「ダシ」と呼ぶ。この山車(だし)という呼称は、明治政府が言葉の全国統一を目指したもので、一種の言葉狩りではないかと思っているが、祭の曳山は、その土地独特の呼び方を尊重すべきであるというのが私の持論。
話はまた大きく逸れるが、「ヤマ」について述べる。我々の先祖は、死ぬと遺骸を故郷の山に葬った。山とは常に先祖の霊が眠る場所であった。先祖の霊は木に降神する。だから我々は祭の時、山のような高い構造物を作り、木を立て、故郷のエリアを曳き回し、先祖と邂逅する。その構造物を一般的に「ヤマ」と呼ぶ所以である。
桑名の石取祭が圧倒的だったのは、祭囃に感じた。「日本一やかましい」というキャチフレーズ通り、祭車(さいしゃ)のそばではなるほど会話が困難である。基本は簡単。大きな長胴太鼓と大きな鉦を5拍子と7拍子にリズミカルに打ち鳴らす。金属音の鉦と自然音の太鼓、更に風のそよぎのような篠笛のハーモニーが絶妙で、私にはジャズのセッションのように聞こえた。祭関係者から、夜中まで繰り出すこの音に「やかましい!」と苦情を言う新住民がままいるという最近の世相も聞いたが、子どもと女性がお囃子を担当していたのもまことにいい光景の祭であった。

刈谷 万燈(まんど)祭

パーマリンク 2014/08/18 11:24:45 著者: y-ishida2 メール

私は愛知県議会議員を12年務めたし、知事選挙も経験したから、県内の自治体は大抵一つのイメージは持つことができる。正直刈谷市には、財政が強く、トヨタ系の製造業を中心にした2次産業の町というイメージしかもっていなかった。
自治体が工場を誘致することは固定資産税が増え雇用が確保できるので、積極的に推進したい政策だ。ところが、製造業の工場が増えると、一方町は人の結びつきが薄れ、何となく無機質になり面白味を失う。刈谷市は、典型的な面白味を失った工業の町だと万(まん)燈(ど)祭を見るまで思っていた。
ところがこの万燈祭を見て、私の刈谷に抱くイメージは一変した。
話は逸れるが、東京に住む人の半分は仏壇が無いという話を聞いたが、仏壇がなければ仏間もなし、先祖の位牌や思い出を語る写真などもないであろう。その家の由来を知ることが出来ぬ。自治体のホームページもそうだ。その町の歴史や、過去の由来などその町の履歴を詳しく書かない自治体が多い。現在の行政サービスや財政状況や医療・福祉・教育などのマニュアル化された数値の記載だけではその町に特別の関心を寄せることは難しい。 その点で、刈谷市のHPはなかなか出来が良いし、杉浦世志朗さんは観光協会の会長としてふさわしい積極的な方だった。
万燈祭は秋葉社の祭だ。1756年秋葉社の前身秋葉堂で火伏せの神信仰が行われたという記載を嚆矢とする。火伏せとは火難防除であろう。1852年雨乞い祈願に万燈が登場する。念のために万燈とは仏前にともす灯火のことである。火避けが雨乞いになったところが面白い。現在は10数基の、高さ5m幅3mの歌舞伎や武者をかたどった大万燈を竹と和紙の張子人形で造る。60Kぐらいあるらしいが若い衆が1人で担ぎ、周りを50人くらいの人たちで囃子に合わせ盛り上げる。「天下の奇祭」というキャッチフレーズがついている。氏子の7町内の他に、刈谷はトヨタ自動車の町であるので、本社があるデンソーが全面的にバックアップ、会社から大万燈を出す。デンソーの若い社員は地元の若い衆に比べ何となく品が良い。やはり、会社の体面を気にするのかもしれない。祭を盛り上げる若い衆は多少ヤンキーな兄ちゃんのほうが実は似合う。それと、根本的には祭は共同体、会社は利益追求の組織体の違いがある。社会学で言う、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの違いだ。しかし、祭りを運営する側に立つとトヨタの応援は財政的に大変プラスで有りがたいという。そうだろう。
この祭を面白いと思ったのは、祭の主旨が雨乞いにあることだ。旱魃は農村地帯では致命傷だったのだろう。今の時代非科学的だと笑う前に、稲作が日本の農業の原点だったことを考えると、この祈りの意味が肯ける。
祭は科学万能に対しアンチテーゼとなる。

蟹江 須成祭

パーマリンク 2014/08/18 11:20:13 著者: y-ishida2 メール

今年3月日本の伝統的祭の中で、国の重要文化財に指定されている32の祭がユネスコの無形文化遺産候補として文化庁が推薦した。 我が国には民俗文化を伝承する優れた祭は多い。が、いわゆる文化財として公的な機関が認定するためにはまず、モノとして見えたほうが判定し易い。例えば、ねぶたや御柱のように、祭のつどモノが無くなっては蓄積された文化財として判定しにくいという問題が生ずる。それはそれで、無形文化財となるが、モノとして修理したほうが公的な補助金はつけ易い故に、そういった祭は組織を作って補助金の獲得に励むようになる。だから、文化財指定の祭はいわゆる曳山(ひきやま)タイプが多くなる。その曳山祭で、「全国山(やま)・鉾(ほこ)・屋台(やたい)保存連合会」という組織を作っている。この組織に属した32の祭が世界遺産候補になった。愛知県に5か所あり、全国最多。蟹江の須成祭はその1である。
須成祭は今まであまり世間に知られていなかった。何故か。一言で言うと、祭関係者が人に見せようとか観光客を呼ぼうという発想が薄かっただけのことだ。いわゆるポピュリズムに流されなかったという事ではないか。
須成祭は津島天王祭と同じ夏の川祭、牛頭(ごず)天王信仰で、夏の疫病退散と五穀豊穣を願うと聞いたが、葭(よし)を刈ってきてご神体とし、葭で禊(みそぎ)を行い、川に流す神事が祭の中心思想だ。
祭前後7月初旬から10月中旬まで約100日間かけて数々の催事があり、別名「百日祭」と呼ばれていると聞いた。祭の全貌はとても見学することはできないが、町の民俗資料館でこの百日祭のビデオを見た。神社の氏子たちが総出で葭を刈る、車(だん)楽(じり)船(ふね)に乗せる人形やその飾りを作る。その他もろもろの祭の準備とそれに伴う仕事をこなすありさまを見た。祭りにプロなどいないし、全員が普通の住民であり、奉仕の精神で取り組んでいる。全て、祭の為である。祭が住民の絆をつくり、住民が祭を育てる。いわゆる共同体の原点であり、コミュニティのあるべき姿であると心から感動した。
蟹江町は平成の合併騒動の中、合併を選択しなかった。賢明であったと思う。合併というのは行政の都合で勝手に線引きし、自治体の範囲を人工的に作る。須成祭をはじめとする日本の伝統的な祭は神社というその土地の先祖を求心力として自然に集まる共同体であり、その地の山川草木と強く結びつく。そして山川草木はすべて神となって故郷を守る。
祭関係者が冨吉(とみよし)建(たけ)早(はや)神社と八釼社の両神社に参り、その足ですぐ隣に立つ寺院にも参詣した。我が国では江戸時代まで、神社と寺院は必ず一か所にあった。それを分けて寺院を追い出したのは明治政府の廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)という仏教排撃のせいであり、これは大きな失政であったと思っている。ところがここ蟹江では本来の信仰形態を維持していた。

津島天王祭

パーマリンク 2014/08/16 10:41:58 著者: y-ishida2 メール

まず祭の名前を「天王祭」と呼ぶことに注目したい。津島神社の祭神であるこの天王は牛頭(ごず)天王(てんのう)のこと。牛頭天王とは元々インド祇園精舎の守護神で、我が国にわたって薬師如来の垂迹(すいじゃく)とされ除疫神として祀られた神様である。垂迹という意味は渡来宗教である仏教の仏が日本土着の神の姿で現れるという神仏(しんぶつ)習合(しゅうごう)の思想である。ここに、日本特有の祭の面白さをまず知っておきたい。この多神教を土台とする、神仏習合の日本人の宗教観が、ユダヤ教をはじめとする一神教の普及抑制に働いたのではないかというのが私の仮説である。
次にこの祭は川祭であるという点に注目したい。水があらゆる生命体の源であるという観念は原始の頃からあったのだろう。だから日本神話には瀬織律姫(せおりつひめ)という神が登場する。水に流すという日本語があるが、祭で人々の穢(けが)れを川に流して再出発という、伊勢式年遷宮の「再生思想」が祭に込められていると考えられる。
津島祭の最も大切な神事は御葭(みよし)神事と言って葭(よし)の束に神が降臨する。神迎えの宵祭、神送りの朝祭が終わった後、参詣者の穢れを一身に背負った御葭を川に流す神事を、神社関係者だけで行う。
神迎えをする宵祭には観光客が群集する。夏の太陽も陰る頃、4艘の車楽船(だんじりぶね)に提灯の明かりがともる。夜の帳が下り、凪いだ川面をゆらりゆらりと優雅に動き出す。桟敷にもたれ遠景から見る車楽船の動きはアニメーションを見ているようで、スロー文化の極致だった。
祭囃のついてはまた別の祭で述べるが、一言で言うと、所により祭により千差万別、邦楽としての様式は一定であるものの、ダイバーシティに富む。
ところで、元々この祭りは6月14・15日に行われていたが陰暦を太陽暦に変えて7月の第4土・日にしたという。私はこの祭日を変更する事には多少の抵抗を感じていた。陰暦と太陽暦の差には違和感は無いが、日曜日に合わせる考えに異議ありだ。1週間の6日働いて最後の1日を安息日と決めたのは旧約聖書である。が、東洋のコスモロジーには7という数にも意味を持たせているので、まあいいかと頑(かたく)なを捨てる気になった。
「日本の祭の最も重要な変わり目は見物と称する群れの発生、すなわち祭りの参加者の中に信仰をともにせざる人々、いわばただ審美的な立場からこの行事を観望する者のあらわれたことである。」と柳田国男は述べている。「祀る」が「祭り」になりさらに「まつり」になった。
大多数の見物客は、なぜこの祭をやるのか、だれが運営しているのか、考えはしないだろう。しかし、この600年の歴史を刻む津島天王祭は、日本人の先祖崇拝の信仰心が岩盤であることは確かである。

京都祇園祭

パーマリンク 2014/08/16 10:39:14 著者: y-ishida2 メール

祭という言葉は広範囲に使用される。
そこで、私が使う祭の概念をまず規定させていただく。
今後私が報告する祭は英語で言うとセレモニーに限る。世に氾濫するイベントやフェスティバルの類の祭は除外する。要するに、宗教的な祭礼行事を伴う祭に限らせていただく。   また、祭という文字だが、「祭り」と送り仮名は使わず、漢字一字の「祭」とする。そもそもこの祭という文字は神職が祭壇にお供えを差し出した時の象形文字であり、スピリチュアルな美しい文字だ。
次に、日本列島津々浦々に存在する祭は、行われる季節、時期もその祭の動機に関係してくる大切な要素だ。
更にこの際私が提案したいのは、祭を見学したら、町並も注意を込めて観察して欲しい。祭と町を不離一体に捉えると、祭とコミュニティの因果関係が理解できる。「祭が町を育て、町が祭を育む」というのが私の持論であり、祭とコミュニティの研究を深めてみたいと考えた所以でもある。
そんなことを考えながら京都祇園祭を見学した。京都という大都会、7月の猛暑、むっとするような人いきれの渦中にいると、平安京の人々がなぜこの祭りを始めたかが読めてくる。疫病の流行忌避を神に祈ったのが祇園祭の起源だ。この祭りを主宰する祇園の産土(うぶすな)(土地の神)八坂神社には幾柱(神は柱と数える)もの神が存在するが、スサノオノミコトがスパースターだ。私は、日本の神々の中でこのスサノオに一番魅かれる。彼こそ日本神話のトリックスターである。
今年は後祭が半世紀ぶりに復活し、大船鉾が150年ぶりに巡航参加というトピックスがあったので、前祭(さきまつり)後祭(あとまつり)の2回観に行った。
日本の祭は神を迎えて祭祀し、鎮めて送ることを基本とする。京都市は戦後車社会の都市化に伴い、面倒なことは省き基本を簡略化し前・後を合体したのだが、それに気づきもう一度基本に戻し神送りを復活した。
これを主導したのは「祇園祭山鉾連合会」理事長の吉田孝次郎さん。私はこの方を風貌もひっくるめ、敬愛の念を込めて、イスラームシーア派の指導者だと表現する。彼は染色織物の研究者でもある。祇園祭の山鉾の文化財としての際立った価値は幕・織物類であり、それが京都の伝統的な地場産業と深く結びついてきた。
祇園祭の山鉾巡航を観、八坂神社に参拝し、祇園界隈の町屋を見学し、吉田孝次郎さんと会話し、京都という町と祇園祭に流れる通奏低音「不易と流行」が耳に残った。

西枇杷島祭

パーマリンク 2014/08/16 10:36:35 著者: y-ishida2 メール

この祭りを尾張の人は「ニシビの祭」と呼ぶ。枇杷島という地名の由来は面白い。町の境界を流れる庄内川の中州が枇杷の形に似てることからそう呼ばれるようになった。川を挟んで東側は名古屋市枇杷島町。従って、この「ニシビの祭」はほとんど名古屋タイプで、名古屋の空襲で全滅した那(な)古野(ごの)神社東照宮祭の山車そのものである。


 祭を主宰する神社は複数の氏神、中心となる神社の顔が見えない。西枇杷島町は人口1万6千人、面積3平方キロの小さな町だったが、旧美濃路街道の面影を残していること、そしてその街道筋に、尾張藩の台所「下小田井の市」があった歴史で、近郷近在には一つの個性を放ってきたコミュニティだ。ところが、平成の行財政改革とやらで三町が合併、清須市となり、「西枇杷島」という呼称は祭にその名を留めるのみになった。


 この祭りの見どころはからくり人形と見た。
山崎構成氏の名著「曳山の人形戯」によると、曳山にからくり人形を乗せる祭の7割は中部圏にあるという。知多半島を北に列島を縦断し能登半島に至る文化の帯がこのからくり人形の祭の集積地帯だという。
因みに、江戸時代、幕府は一種の軍縮政策で、あらゆる技術的な発明発見を禁じた。が、祭だけは左にあらず、理数系の才能は祭のからくり開発に覇を競った。その流れは関東では歌舞伎に向かい、関西では文楽に向かい、中部圏はからくりとして発達。今日中部圏の持ち味である、モノづくり、産業技術の土台となったという説を聞いたことがある。
西枇杷島祭のからくり人形の舞はレベルが高かった。山車は全部で5台、すべて江戸末期の作であり、各町内の山車にはからくりの主人公の名前が付けられている。橋詰町は王義之車、問屋町は頼朝車、東六軒町は泰(たい)亨(こう)車、西六軒町は紅塵車、圦西町は頼光車。
今年は橋詰町の幕を新調したというので解説を聞いた。前祭には簡単な紺幕、本祭りには猩々緋の幕を飾る。山車の前に掛ける幕は王義之流の書が金刺繍で施され、山車中段の幕には金具で蝙蝠(こうもり)の図が描かれている。蝙蝠は福を呼ぶと言われ、町内の繁栄と幸せを願う象徴である。彫り物の解説も長い、江戸末期名古屋の彫師森藤九郎住永の作、屋根や高欄部は河甚作という。山車のことを動く総合工芸品と称するゆえんである。ハイライトは山車の名前となっている王義之と2体の唐子人形。からくり人形には唐子と呼ぶ人形が登場するが、唐子は唐の国のことであり、服装もまさに異国のファション。王義之といい唐子といい、我々の先祖は故郷の神に異国の物語を奉納するわけだ。
日本列島は、ギリシャ・ローマ文明がシルクロードを経て東進し、中国文明を吸収してこの国へ至った世界文明の最後の終着点だった。そして、江戸期に発達した都市の祭文化はその爛熟だという見方もできる。

大垣祭

パーマリンク 2014/08/16 10:34:04 著者: y-ishida2 メール

祭を語る前に町について語る。祭を観る前にその町を知ることが祭を包括的に理解することになる。祭は町の個性を表現する。        
私は大垣という町が好きだ。天下分け目の関ヶ原の会戦、敗軍の将石田三成はこの大垣城から出陣した。大垣城に立つと滝廉太郎の古城「昔の光 今いずこ」を思い出す。
大垣城は戦国の栄枯盛衰を語る名城である一方、現在の大垣市は、岐阜県一のハイテク都市として繁栄する活力に富む町だ。
五月晴れの青空に祭の幟がはためく大垣八幡神社へ祭を見に行った。
大垣市は日本列島のど真ん中に位置する都市らしい。濃尾平野は緩やかに鈴鹿山脈まで西に向かって降る。木曽三川の豊かな地下水脈はこの地で湧出し、大垣は水の都と呼ばれ、俳聖芭蕉終焉の地でもある。
文化の香り漂うこの地の祭は大垣八幡神社の祭礼である。この神社のルーツは東大寺の自領であったという。因みに、現在わが国には神社が86,440社あるが、そのうち八幡社は7、817社。2位の伊勢信仰4、425社以下を大きく引き離して突出している。 
八幡神社のご祭神は渡来人秦(はた)氏(し)の氏神であるが、聖武天皇は奈良の大仏殿建立に際して八幡神を護り神としたことにより、日本民族の最もポピュラ―な神となった。「南無八幡大菩薩」という言葉は、日本人が何か願い事をする時唱える典型的な神仏習合の呪文である。
ここ大垣祭は13台の曳山が登場する。車偏につくりは山の字を当て「ヤマ」と呼ぶ。そしてそのすべてのヤマには人形が乗り、更に歌舞伎を演ずる舞台がついている。子ども歌舞伎は楽しい。
私の住んでいる犬山の祭も13台の車山(ヤマ)が繰り出す。そして私の町内は舟形の車山であり、浦島のからくりを演ずる。今年大垣祭の浦島ヤマが昭和20年以来の再建を遂げたと聞いたのでそのヤマについて回った。
友人の庭師から、日本庭園の美学は造った時点から完成は30年後を見据えているという深い話を聞いたことがあるが、大体日本の工芸文物は歳月を経て骨董の次元に入らないと光らない。再建は祭関係者の壮挙ではあるが、今日浦島ヤマ(山偏に車)を見て、いまだ未完成品だと愚考した。
大垣祭の特徴、歌舞伎についても語りたい。歌舞伎も本来神社への奉納の舞が根底にある。
アマテラスが天岩戸に隠れ、この世が暗闇になった時、危機を救ったアメノウズメの踊りとテジカラオの怪力の物語は日本神話のハイライトであろう。出雲の阿国が歌舞伎を始める前にアメノウズメという神がいる。そして、江戸時代の歌舞伎文化こそ世界文化遺産に認定された日本人の演劇文化である。
大垣八幡神社を中心に屋台が立ち並ぶが、この的屋文化については他の祭で論ずる。

知立祭

パーマリンク 2014/08/16 10:28:38 著者: y-ishida2 メール

知立市の出しているパンフレット類はすべて「まつり」とひらがなで書いてある。祭の字の下の部分「示」は三方の形、上は肉月で生贄の供え物を意味する。すなわち、祭という漢字そのものが神に捧げものをする時の象形文字であり、「祭」と必ず漢字で書いて欲しいものだ。これは由緒ある知立神社の権威に関わることだ。知立祭を主宰する知立神社の由緒は古い。熱田神宮、三島大社と並び東海道三社に数えられていた歴史がある。筆頭ご祭神はウガヤフキアエズ。鵜の羽の上でお生まれになったと聞いた時、犬山の鵜飼に熱中していた私には親近感を覚えた神、初代天王神武の父であり、神話世界最後の神だ。
知立祭は5月2・3日に行われる。日付が固定してあることも嬉しい。というのは、全国どこの神社も1年の例祭日は毎年固定しているのだが、観光客に配慮して例祭日に近い日曜日に毎年毎年祭の開催日を変更する。要するに、観光向けの祭になりつつある。祭の権威を測る尺度として、このことを頭の片隅に置きたい。祭の原点はその土地のご先祖との邂逅である。神となった先祖を迎え、五穀豊穣や厄除けを願った信仰そのものであった。その点で知立神社には権威がある。
知立祭には5台の山車(ダシ)と呼ぶ曳山が繰り出す。「担ぎ上げ」といって、巡行中町角へ来ると、高く大きな山車の一方を担ぎ上げて回す。かなり傾くので見物しているものはハラハラする。担ぎ手である若い衆が格好良く見える祭の見せ場であろう。
祭には厳粛な神事と、喧騒な行事が共存する。酒を飲んで騒ぐことは神もお喜びになるという解説を正統な神職から聞いたことがある。祭の行事の中で風流(ふりゅう)とか練物(ねりもの)と呼ばれるものは今で言う所のパレードであり、何でもありでいいのだ。祭に伴う騒ぎに大衆文化の歴史的絵巻を見る。
5台の山車の1台はからくり人形だが、4台は文楽を奉納する。この人形浄瑠璃が知立祭の白眉であろう。私は数年前、この文楽を語る義太夫を聞いたが、その語りは90過ぎの方だった。感情移入され高揚した語りの声とベンベンと重く低く響く太三味線のハーモニィが知立神社の社に木霊し、日本音楽の美を耳に留めている。
邦楽の世界では70過ぎてから声も技術も上達するという話を聞いたが、それは正座という体勢が体の使い方にロスを生まないそうだ。とにかく、日本の文化と欧米の文化は根本からその考え方と様式が違うという事を、祭をやっていると思い知らされる。
日本人はその様式とその奥にある思想を明治以降捨て去り、忘れてしまったのではないかと思えてならない。
今年の知立祭は「全国山・鉾・屋台保存連合会」の総会と兼ねて開催された。この連合会に所属する32の祭がユネスコの無形文化遺産になる可能性が出てきたからである。

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