アーカイブ: 2013年9月

9月21日 祭り研究会

パーマリンク 2013/09/23 07:21:53 著者: y-ishida2 メール

8月から至学館大学にある伊達コミュニケーション研究所の所長になり、「日本の祭」に取り組む。私は今まで、政治家という行動者として生きてきたから、大学の研究所と言え単なる書斎派では決してない。あくまで私の目指すのは、祭りの実践を通して社会への働きかけという行動にある。
遠い先の目標は、日本各地に存在する神社を中心とする伝統的な祭りを地域のコミュニティーの中心に位置づけ、列島の津々浦々祭りの持つ力によって、ふるさとを再生させることである。今こそローカリズムの実践だ。  そのための当面の目標として、まず今年中に、愛知・三重・岐阜3県の祭関係者を集めて今秋11月17日、シンポジュームを開く。基調講演は哲学者の中沢新一さん。パネラーは、京都祇園祭の吉田会長、学術宗教界を代表して国学院大学の茂木栄さん、文化庁から菊池調査官を決めた。このシンポジュームで一つの方向性を見出したい。そのための2回目の勉強会を今日開いた。
予め、祭関係者には祭と神社の関係について、祭りを維持するうえでの苦労、今後の問題点などの質問を出しておいて、それに答えてもらうという形で進行した。さすがに祭関係者は神社との関係、神や祭礼の意識は明確だった。祭関係者の発言の後、オブザーバーで出席依頼した識者の発言も交えて今日の議論を整理すると、今後この研究会の論点が、おぼろげながら見えてきた。
1 祭を自分たちのコミュニティーを固めて行く共同体形成、いわば内輪の論理に重心を置くのか、観光など祭を経済行為と考え外向きの論理に傾くのか。
2 祭を宗教と捉えるのか、宗教ではなく日本人の習俗・伝統文化と考えていくのか。
3 大都会の信仰心などかけらもない祭が最近どんどん若者を集め、都市の活性化に役立っているが、単なるイベントとしての祭をどう考えるか。
今日の出席者の中には、ささやかでも、世に知られなくても、自分たちだけでシッカリ伝統を守ってやっておればいいという論と、どんどん観光客が来るような工夫をしなければ、先細りになって消滅してしまうだろう言う論に分かれたような気がする。
私は、日本の祭の原点は先祖崇拝と自然への畏敬の念の二本柱で共同体を形成してきたのだから、祭りの主体者としては観光客や経済行為はほっておけばいいと考える。が、この個人的な見解は少々封印し、もう少し皆さんの意見に耳を傾けながら研究会の意思統一を図りたい。しかし、大学の研究所と言え、ただかくかくしかじかの意見がありますという考え方の並列ではなく、私に任された研究所なので一定の方向性を出し、行政やマスコミに提言したいと考えている。
当面11月のシンポジュームに集中して、考え方を絞っていく。

9月16日 happy

パーマリンク 2013/09/18 09:57:38 著者: y-ishida2 メール

ドキュメンタリー映画「ハッピィー」を観る。
日本の祭研究で最近親しくなった宗教家三輪さんの推薦が、観てみたいと考えた理由だ。 映画館ではやらない自主上映であり、調べて会場の名古屋港ポートビル会議室へ行ったら、「ヒューマン・アカデミー」という専門学校主催の授業の一環みたいな企画であった。
トム・シャドヤックというアメリカの映画監督が「幸せな国ランキング」で経済力世界一のアメリカが、幸せ度23位という事に関心を持ったのがこの映画を作るきっかけになったらしい。6年間世界中を回って取ったドキュメンタリーだ。
インドの貧民街に生活する男の登場からこの映画はスタートする。職業は車引きの車夫。一日中劣悪な労働環境の重労働に耐え、帰宅するとバッラクのような家から家族全員が笑顔で迎える。男は「私は幸せだと」言う。
次はアメリカの女性だ。トラックにひかれ瀕死の重傷から生き延びるが、顔も体も醜い後遺症に陥る。絶望の淵から立ち上がり、人には悲劇を笑って乗り越える力があると言う。そして「私は幸せだ」。
ここで心理学者ティム・キャサー博士は解説する。「自分が持っていないものを考えるのではなく、何を持っているかを意識することが大切です」。「自分が幸せだと感じる時ドーパミンという快楽ホルモンが脳から分泌されるのです。」ポジティブ心理学といって最近の心理学研究の方向らしい。
この映画のプロデゥースに清水ハン栄治という日本人が加わっているので、日本の幸福度も取り上げる。トヨタの社員の話だ。しかし、それは、過労死で亡くなって悲嘆にくれるその妻の登場だ。世界的にかの有名な、東京地下鉄の通勤地獄をリアルに描写する。続いて、日本の野良着のような民族衣装を着た幸福度№1、ブータンの情報通信大臣の「家や車、洋服といった物質的なものでは心の安らぎを得られません」、というインタビューが入る。この映画は、GDP至上主義のわが国を皮肉る意図があるのではないかと穿ちたくなるような場面であった。
私は「自分の好きなことをやり、それが人に認められ、それで食べていけることだ」とか。「自分の仕事を愛し、家族を愛し、故郷を愛することだ。」等々という幸せ観を持って今まで生きてきたが、最近それは何だか経済も人口も国も自分自身も若くて成長期の幸福感のような気がして来た。今の日本と自分の年齢を考えると、幸福感ももう少し控えめで成熟したものにすべきではないか。
先週私の心から尊敬する人の一文が送られてきた。「毎日朝晩ご先祖に祈りをささげています。朝には、今日も一日良きことができますように。夜は、今日も一日元気で働けたことに感謝します。」と、あった。
到達すべき境地である。

パーマリンク 2013/09/18 09:56:38 著者: y-ishida2 メール

9月10日 はだしのゲン

パーマリンク 2013/09/13 09:19:40 著者: y-ishida2 メール

漫画「はだしのゲン」が、松山市教育委員会により市内の図書館で自由に読めない決定がなされ、物議をかもした。すぐメディアが反応、教育論の立場を超えて歴史認識、表現の問題、戦争体験などの視点から議論が広がった。このニュースの詳細を聞いて自治体行政の経験から言うと、まず松山市の市長と教育長の主体性のない凡庸な姿が浮かんだ。最後は撤回したが、お粗末な決定をしたものだ。
が、まだこの漫画を読んでいなかったので、さっそくアマゾンに発注、半月以上たった今日やっと手に入り、全10巻読了するのにまる2日かかった。
まず漫画というものについて述べる。私は20年前、犬山祭のからくり人形の解説を文章で説明するより絵で描いたほうが子どもに分かり易いと考え、「蘇えったからくり人形」という著作を物した。漫画を友人の土屋さんというプロに書いてもらったが、ストーリーは土屋さんと相談しながら作った。そして登場人物のセリフは私が考えたが、これがとても面白い経験だった。一冊作ったくらいで知ったかぶりは慎みたいが、丁度映画の脚本のセリフを書くように平易な口語体で表現でき、漫画は小説などよりむしろ映画表現に似て、現実がより濃厚に理解されるという感想を持った。漫画「はだしのゲン」によって、原作者中沢啓治の強烈な原爆批判と反戦の思いは子どもたちに確実に伝わってくる。
本論に入る。戦前の軍国主義や大東亜戦争の戦争責任は昭和天皇にあるのではなく、天皇の意向を笠に着て、天皇を利用した政治家・軍人の指導者とその解釈を可能にした明治憲法にある。その点で、作家中沢啓治と私とは見解を異にするが、それはそれで貴重な体験談として尊重したい。
それ以外は、長崎の原爆被爆者としての主張に迫力があり、明快で正義感と生命力に富み、子供が読んだら戦争の残虐さ悲惨さが必ず理解できる物語だと思った。この本を子どもが読むと間違った価値観を持つと主張する人は教育の何たるかを理解していないか、子どもの想像力を見誤った人であろう。
更に、原子爆弾を落としたアメリカに対し執拗に批判を繰り返すこの歴史的証言が、世界中に翻訳されている普遍的な理由になっているのではないかと感じた。
今回の1件を巡って松江市教育委員会の決定を支持する意見もあるし、文科大臣も多少ぼやけた発言をしている。それらの言動に私は、何となくアメリカに対する遠慮を感じてしまう。こんな反米の鬼のような漫画を子どもに読ませてはならぬ、アメリカとはあえて事を荒立てないほうがいいという盲目的な追従の気持ちがあるのではないかと勘ぐってしまう。
東日本大震災の原発事故が起きた今、広島・長崎の原子爆弾の歴史が重なり、今回の論争は深いものを感ずる。

9月1日 netと若者

パーマリンク 2013/09/02 07:36:09 著者: y-ishida2 メール

若者が悪ふざけをし、その写真をネットで発信、世間の顰蹙を買っている。少々の悪ふざけなら我慢もできようが、社会の秩序を乱したり、人に迷惑をかける事件にまでエスカレートしている。しかし当の若者は自分のしたことの意味が分からなくなってしまっているらしい。若気の至りという言葉は昔からあり若者は少々の悪ふざけはやるものだが、それをネットに載せて世間に見せるという事が、時代の事件になった。
人間には個人差はあるが目立ちたい、注目されたいという本質はある。その注目のされ方、目立ち方の鼎の軽重が分からない若者が世間の批判に会い、逆説的に言うとネット社会の犠牲者ではないかという気もする。
それは、ソーシャル・ネットワーク・メディアの持つ映像の力にあるような気がする。確かにネットの伝える写真、動画の威力は圧倒的な表現力を持つ。映像の力は一瞬にして、しかも労せずして情報を伝達してしまう。文章によって説明することなどまるで児戯に等しいような錯覚に陥る。大きな落とし穴だ。
ネット社会において、文を推敲するという事についても述べたい。ツウィター、FB,Eメイルなど、あの片言隻句には自分の考えは語れない。今どこにいる、これから何をする、今誰と会っている等、私に言わせるとどうでもいいことを主体性のないふにゃふにゃな文章で垂れ流ししているにすぎない。それはそれで、喫茶店で世間話しているレベルのことと考えればいいのかもしれないが、自分の主体性を持った意見を語るためには、ほどほどの字数の文章でなければ無理だ。
私は公職にいた時、役人の書く文章が長すぎるのに閉口した。説明文はなるべく簡潔に、資料は極力少なめに。私が行政職にある者に絶えず言ったことだ。しかし、最近の若者には逆のことを言いたくなった。文章はもう少し骨のあるものを長めに書け、と。

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