アーカイブ: 2013年2月04日

2月4日 「ましたむら」寄稿2

パーマリンク 2013/02/04 09:55:03 著者: y-ishida2 メール

まちの字には町とか街という漢字が普通使われますが、最近ひらがなの「まち」の字を見かけます。ひらがなのまちには、祭りだとか文化だとか歴史などいわゆるソフトウェアーをひっくるめた、多様な市民活動のイメージが込められています。「都市計画」という言葉がありますが、この言葉はいわゆる役所用語で、市街化区域に限定した主に道路建設や公共施設などハードウェアーの街づくりのことです。「まちづくり」というのは総合的なものと考えますので、私はたいていひらがなのまちづくりという表現にしています。
このまちづくりで最も大きな影響を及ぼすのが、自治体どうしの合併です。
何故かというと、目に見えるハードウェアーはある程度財政力で解決できますが、目に見えないソフトウェアーはカネの問題ではない心の価値観が絡むのです。地域にはそれぞれ微妙に違った伝統や個性がありますから、合併したと言って、なにもかも一律基準の運用には馴染まないものもあります。まちづくりにとって大切なことは心の求心力です。
実は合併問題の落とし穴がそこにあるのです。
わが国は近代国家になって三度の自治体合併を経験してきました。一回目が明治政府による合併。二回目が戦後の大合併で、三度目が平成の合併です。この平成の合併前、全国にはほぼ3300の市町村がありましたが、合併を経た現在は半減しほぼ1700に整理されました。
合併論が台頭するときは必ずそれなりの時代背景があるものです。平成の合併論の背景には地方分権という時代の潮流がありました。わが国は明治以来、欧米に追い付け追い越せと劇的なスピードで近代化を成し遂げ、戦後は焼け野原から世界トップクラスの経済大国に急成長しましたが、それは極度にコントロールされた中央集権という体制があったからです。
ところが経済成長も頂上を極め、バブルが崩壊し、財政赤字が深刻になり、極端な少子高齢化社会とグローバル経済の時代背景を受け、国と地方の役割の見直しが必至となったのです。地方分権とは一言で言うと国と地方が対等の関係になるということ、自治体が国から財政的に自立するということです。画期的な時代思想と言ってもいいでしょう。最近大阪の橋下市長がメディアの寵児となった感がありますが、彼の言っている大阪都構想や道州制もこの地方分権の文脈の中に捉えることができます。
そこで下呂市のことです。
下呂市は8年前に五ヵ町村が合併し誕生しました。私は8年前下呂市には住んでいませんでしたので、当時の住民や、町長たちの気持ちを語ることはできませんが、相当悩みが深かったことは容易に想像できます。私は犬山市長としてこの合併問題には、真正面から取り組みました。われわれの場合は、犬山市・江南市・岩倉市、大口町・扶桑町が合併するという原案でした。それぞれの自治体にはそれぞれの事情がありますが、最大のキーは財政力の格差です。犬山市も賛否両論、市民の中にも市議会も両論あり綱引きが始まりましたが、私はいち早く、市長として合併はしないという考えを打ち出しました。もちろんこの私の考えに反対する意見も多々ありましたが、国からの特別な支援を当てにせず、犬山市だけで頑張ればやれるし、そのほうが市民の結束が強くなると思い、合併の協議から離脱しました。
犬山市は合併せず自立の生き方を選択しましたが、その後人口、観光客ともに増え、財政力も豊かになっています。合併しなかったデメリットは何も探し出すことはできません。一方下呂市は合併後、極端に人口が減少し、財政力は落ち込み、まちの求心力を失い、自治体としては正直半病人です。    
下呂市のみならず、実は全国で合併をしてかえって、力が落ち、問題が発生した自治体のほうがに多いのです。私はこの現象は、合併を選択した自治体は結局「合併特例債」という中央政府のカネに目がくらんだからだと結論づけます。それは時代の思想である地方分権の意味が理解できず、国から自立の気概が薄く、市民の側に立った市政を本気になって進めようという気迫の欠如のように思えます。
まずそのことに気づくことが下呂市再生の一歩です。

2月3日「 ましたむら」寄稿3

パーマリンク 2013/02/04 09:50:57 著者: y-ishida2 メール

下呂市に「ましたむら」というコミュニティー紙がある。そこへ私も寄稿しているので今日から3日間連続でそれを載せることにする。

「ましたむら」前号で合併論について私見を述べました。
今号では、その合併論の背景になった地方分権の時代背景を体験から語ります。
この地方分権の対極にあるのは中央集権です。わが国は145年前、幕藩体制による鎖国に終止符を打ち、明治国家を樹立しました。それまでの日本人にとって国という概念は、ふるさとのことでした。飛騨の国、美濃の国、尾張の国こそが自分たちの国でした。明治国家とは欧米先進国にモデルを求め、頭で考えたイメージの国づくりでした。そのためには中央集権が必要であり、東京は日本列島の配電盤だったのです。
明治期の国づくりの第二幕は、67年前第二次世界大戦の終戦時です。敗戦し国家主権を失い、GHQ支配下でつくられた草案が今の日本国憲法となりました。卓越した日本研究でベストセラーになったドキュメント「敗北を抱きしめて」の中で、著者ジョン・ダワーは戦後のわが国を「日本・アメリカハイブリットモデル」と呼んでいますが、戦後のわが国は憲法をはじめ、何でもかんでもアメリカ流が上から降りてきました。GHQは、大戦末期の国家総動員システムを使い上意下達、官僚主導、中央集権を逆に強め、戦後日本の国づくりを進めました。また、このやり方は極めて効率よく、集中的に戦後わが国の経済成長を中心とする国づくりに貢献することとなり、焼け野原から奇跡の復興を遂げ、20年そこそこで日本は世界の経済大国にのし上がるのです。
しかし、経済成長がピークを過ぎ、バブルが崩壊し、アメリカの力に陰りが見え始めた20世紀終末、そろそろこの上意下達、官僚主導、中央集権システムの限界が見え始めてきました。また、経済のグローバル化、人口の少子高齢化がこの傾向に拍車をかけます。
1995年5月、国会は地方分権を決議。この年こそ明治政府成立以来の国家主導による成長の分水嶺を越えた、国づくり第三幕が始まった時として記憶に留めなければなりません。2000年から導入された介護保険制度は、この文脈から始まった代表的な行政サービスです。 その後誕生した民主党政権のキーワードは「コンクリートから人へ」でした。この価値転換こそ、土建国家から福祉国家へ、成長から成熟へという大きな歴史の変化を踏まえた地方分権の政治転換でありましたが、この歴史の潮流は停滞気味です。
何故か?
この第三幕では地方政府の役どころが重要になってきたにもかかわらず、実は地方の意識がいまだ中央依存から脱しきれてないのです。例えば、「行政指導」という法律には書かれていない暗黙の基準みたいなものがあります。中央政府からの「命令ではない命令」です。地方分権以来この行政指導というのは原則無くなりましたが、多くの自治体はこの中央政府からの行政指導なしに、単独で判断する気迫がないのです。
昨年末の衆議院選挙を私は地方・中央両方の政治経験から、世論に耳を傾けました。しかしながら、国づくりの基盤となる地方分権とか地域主権という論議はほとんど素通りしてしまいました。国政や国会議員は、実態よりも何倍もの拡大鏡を当てて見られていますし、期待もされ過ぎです。国家を支え、静かではあるが確実に国家を変えていくのは、国民一人一人が身近に感じる自治体の感覚ではないでしょうか。地方が、自分のことは自分でやるという当たり前の感覚です。にもかかわらず、最大の落とし穴は、地方の意識が中央の指示待ちであるということです。
下呂市の場合、地方分権時代になってから行った合併というまちづくりにはメリット・ディメリット両方がありますが、中央政府からの指示待ちや援助頼みではなく、市民の自力でこれを解決していくのが21世紀の生き方だと思います。

2月2日 下呂の薬草園

パーマリンク 2013/02/04 09:38:02 著者: y-ishida2 メール

薬草の勉強会開催。
下呂市萩原町の四美(しみ)に「南飛騨国際健康保養地」という岐阜県の施設がある。健康と医療というテーマを温泉地ならではの下呂で追及した優れた構想ではあるが、岐阜県の最近の財政事情から活動が縮小し続けている。民間の場合10年もやってみてジリ貧なら廃止だが、行政にやめる決断はなく、不良資産でも何となく残る。
逆に私は、今がチャンスと考えている。
「医療と健康」というテーマから、「持続可能な地球環境問題」にシフトしたらどうだろう。また、行政主導から地域主導に手法を切り替えれば、この事業は再生すると考える。
この保養地の地元四美地区はまだコミュニティー力がある。飛騨特有の故郷に対する愛着と結束力があると見る。さらに大きな要素は、2〇〇haに及ぶ豊かな県有林がこの施設のグランドである。今、100年先の地球規模で考えなければいけない人類の道徳律は環境問題であり、持続可能な経済発展というテーマであろう。この地は林業、農業、再生エネルギーなどを新しい視点から考える最適の拠点になると思う。
そこで、まず今日は、保養地の目玉である「薬草園」について中部大学の南基泰教授に講演をしてもらった。南さんは世界中の薬草を説明、この薬草園は日本一だという折り紙をつけてくれた。薬草というものはどういうものか、代表的な薬草の効能など説明。聴衆者は生活の中で薬草と向き合った環境に生きてきた人たちなので、自分の経験と照らし、興味深く聞き入っていたように思う。
今日の企画は、中部大学の企画でもあった。中部大学に事務局を持つ国連大学やユネスコのコンセプトとリンクするもので、これから先の道筋は壮大である。今後のことは、岐阜県の理解がいるが、方向性は間違っていないと信じて粘り強く努力してみる。

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