衆議院選挙の告示日が迫り、政局はいよいよ混沌としてきた。嘉田滋賀県知事を代表とする新党が立ちあがった。予測していなかった、未曽有の政治状況。
朝、テレビで各党の主張を聞いていたが、政治を職業としてきた私でさえ、党名も頭に入らず、各党の主張を明確に区別することもできない位だから、普通の有権者は混乱するだろう。現実にテレビでマイクを突き付けられ、戸惑うと発言する人が多かった。
私は今回の混乱は、長かった自民党政治が壊れた後遺症であると思っている。3年前の民主党による政権交代の続編である。あまりにも自民党の一党独裁が長すぎたので、壊れた後の回復に時間がかかるのだ。生みの苦しみはあるが、今度の選挙は政権交代の更なる進化かもしれない。
この際、一人でも多く新人が当選することを願う。大量に新顔の議員が生れ、大幅に国会議員が入れ替わり、既存の政治が一新されることを望む。
時代を一新することだ。新しい革袋には新しい酒を、だ。
ソーシャルネットワークサービスをビジネスとする一六社でネットの動画対談をやっている(「地域主権」で検索してください)。「ローカリズム」というテーマを掲げているので、地域で活躍をしている人との対談だ。
今日は「日本桃太郎の会」事務局長の伊藤裕皖さんと対談した。桃太郎の物語には仏教の教えが比喩として語られているという。イヌは飼い主の恩を忘れない。サルは知恵を働かせる意味。キジは一直線の決断と勇気。桃太郎が3匹の家来に黍団子を与えるが、それはまず先に与えた事に意味があるのであって成果主義ではない。鬼を成敗し改心させ、許した。この許すという発想も日本人的である等々。
「桃太郎」は、世界のおとぎ話の中でグランプリをとったそうだ。今日、伊藤さんと桃太郎の話をしているうちに改めて、この昔話の意味を考えた。時代を超えて持続するものはその中に普遍的な価値観とか倫理観とか禁忌みたいな教訓が含まれているからなのだろう。話ばかりではないどの分野にも通ずる事である。
引き続き私の経験から選挙を考えてみる。世襲制について。
結論から言うと政治の質を落とす罪悪と観る。私は若いころ自民党政治の中で育った。振り返ってみると30年前の自民党政治は経済のバブル期を背景に金権政治そのものだった。政治家と業界と霞が関のいわゆる政官財の談合政治だった。例外はあるものの、当選回数の多い自民党政治家は政治という権力を使って蓄財した。そしてその甘い蜜のような権力構造は、その政治家の一族に継承された。また、当選回数の多い自民党政治家の特徴は、強力な後援会組織にあった。この後援会が世襲を望んだ。傑出した政治家でも人の親。後援会の「若先生も立派になった」というリップサービスには弱い。かくして選挙区では世襲以外の才能が封じ込められてきた。そもそも政治家に限らずどんな職業でも、特殊な才能がそのまま遺伝するなんてことは例外を除いてありえない。子供に政治家としての才能があったら親とは全く違う選挙区にて自力で立候補すればいい。嚢中の錐、頴脱の人となる。
世襲は国家の象徴である天皇だけでよい。
衆議院の選挙が迫ってきたので選挙を考えてみる。
候補者が挨拶に来る。私の経験から、挨拶を受ける側の心構えみたいなものを述べてみたい。今回の選挙は、いまだかってなかったほど、どの候補者も不安を抱えている。民主党、自民党から離党し他党から立候補する人、空席ができ突如立候補する無名の新人。「ちょっと無理じゃないの」と思っても挨拶に来たらそう言わないほうがいい。
心が決めかねている時には人間というのは不安一杯で、人の意見にそれなりにぐらつくものだが、いったん決心したら、覚悟を決めたのだから、本人なりの確証を持ったに違いない。 それは当人の主観であり、アイデンティティーそのものである。いかに客観的には無理だと予想されても、本人にしてみれば何かの確証を心に掴んだ時、人間は決断する。挨拶を受けたら「頑張ってください」といえばいい。そして自分の考えと共鳴できる範囲内で応援してやればいいと私は思う。
「客観的な事実なんてない。あるのは一人一人の解釈だけ。」と、ニーチェは言っている。