政治家という職業に生きてきたので、スピーチをするという事については他の職業の人より多少注意深く、自分なりに研究もしてきたつもりだ。
最近は大学に籍を置き、学者との付き合いが増え、また、シンポジュームとか研究会に出席する機会があり、学者の話を聞く機会が多くなった。学者という職業はとにかく書物を読むからどうしても話が説明になる。そして、大学関係者の話はほとんどがコンピュータを使い、資料の山だ。
先日中部大学で催されたシンポジュームで、私以外のパネラーは全員コンピュータを駆使していた。ほとんど書物の文章のみをパワーポイントで説明していた人もいた。何だかコンピュータを使うと科学的なイメージで、より高度なことを言っているような気がするが、実際聞き手に伝わっているのだろうか。
私は疑問に思う。
勿論スピーチといってもケースバイケースではあるが、所詮スピーチは話し言葉で表現し、伝達するのが原則ではないか。
私はまとまった話をする時はストーリーのレジュメは作るが、あえて電子機器は使わない。話の進行によって黒板を使いチョークでキーワードだけを手書きすることにしている。
私は作家の話を数人聴いたことがあるが、作家は話がうまい。なぜか。作家という職業は物語を作るプロだからだ。話は物語ることと心得るべし。
頼山陽は物語を常に起・承・転・結で構成した。
「大阪本町 紅屋の娘
姉は17 妹15
天下の諸大名 弓矢で殺す
紅屋の娘は 目で殺す」 起承転結のモデルとして、レジュメを作るとき拳拳服膺している。
先日至学館大学での「祭シンポジューム」で、中沢新一さんの講演は私の人生に残る感動の名講演だったが、何の資料も無く、ただ喋るだけの時間帯だった。私は一字一句聞き逃すまいと必死でメモを取り、集中した。
話は物事を説明することではなく、言葉を植え付けることである。と小林秀雄は言っている。彼はスピーチの勉強にと落語をよく聞いたそうだ。
そのエピソードを知り、私も談志の落語や虎造の講談を何度も聞いたものだ。森繁の読み語りも絶妙で、引き込まれる。
このように、私も私なりに努力をしてきたが、話は難しい。瞬間芸術で、捉えどころがない。
世の中には実に話がうまく、うらやましくなるような才能の人がままいる。
私も、あなたは話がうまいといってもらえるような人間になりたいと思ってこれでも研鑽をつんでいる。
至学館大学の伊達コミュニケーション研究所長としての初仕事、「日本の祭シンポジューム」を開催。
基調講演に哲学者の中沢新一さんをお願いし、他のパネラーも私自身考え抜いて選んだので、発信する側は準備万端自信満々だったが、聴衆側は何人来てくれるか心配だった。 100人来てくれればいいかなと思っていたが、開けてみると200人近くの人が来てくれた。まずこのことに胸をなでおろすとともに、来ていただいた人たちに感謝したい。
大学主催の研究会はほとんど人に聴かせるという視点がなく、発表することに力点を置く。 その点で、私の企画は、至学館大学に新たな地平を開いた。政治を職業にしてきた者が大学に入れる新しい血液だ。
大勢聴きに来てくれたことに応えるかのように、中沢さんが、圧倒的なスケール観の話をしてくれた。
哲学という言葉と概念を私は好きだ。彼は哲学のない人間だとか、あの人の話には哲学を感じるとかいう時、それは、単なる個別のテーマではなく、人生について、生き方そのものについての次元となる。今日の中沢さんの話は、人間はどういう原理で生きているかという視点で、圧倒的な知性と思考の深さを感じ、言葉の力にほとんど酔った。
中沢さんの話で、一番鋭く私の心に突き刺さったのは、祭の原理は、ムダ使いすることいわば富の蕩尽にあり、経済成長が意味があるというのは企業家のでっち上げである。祭をやることはある意味経済成長とは何かをわれわれに問いかけているという切り口だった。
我々は、金に限らず、時間やエネルギィを後先のことを考えず、ハメをはずして浪費するとき、一種爽快感を得る。爽快感を通り抜け、陶酔感といっていいような世界に入る。祭にはそんな魔力が潜むし、その魔力がエネルギィとなり生命力を生むことを知っている。
基調講演の後、国学院大学教授の茂木栄さん、京都祇園祭理事長吉田孝次郎さん、文化庁調査官菊池健策さんがそれぞれの立場から祭を考察した。私としては、茂木さんから、もう少し日本人の信仰心というようなテーマで、神道について専門家の話を聞きたかったが、時間の制約があったので、腹膨るる思いであった。
世の中にはシンポジュームが溢れている。政治、経済、医療、社会保障、エネルギィなどなど。しかし、今日のテーマは新鮮であった。私の狙いに参加者は今後どう反応してくるのだろうか。
今日の議論を今後どう発展させたらいいのか、暫くゆっくり温めながら考える。私の役目は、議論の次の行動にある。具体的にどう次のアクションに結び付けていくかである。 人が本来持つ祭に対するエネルギィを素直に引き出しさえすればそれでいいのだが。
今日は「文化の日」という国民の祭日だが、戦前は「明治節」と言って明治天皇の誕生を祝う記念日であった。わが国は大東亜戦争に敗戦し、それまでの帝国憲法を廃止、天皇制を大きく見直したが、やはり国体の根っこにはこの日本史の継続性がある。新憲法や天皇制を考えることも大切だが、今日は文化について考えた。
17日の「日本の祭シンポジューム」が近づくにしたがって、私の頭の中は、「祭」をどう考えるかという事に集中しつつある。始めは、伝統的な宗教行事に基く祭以外は意味がないと思い込んだが、だんだんいろいろな人の意見を聞くうちに、考え方も多少柔軟になり、視界が広がった。
これも一種「祭」と呼ぶが、岡崎市の「ジャズストリート」に参加した。このイベントの仕掛け人、同前慎治さんから招かれ以前からファンの1人である。この日、この町に入ると岡崎という町全体がジャズにスィングしているような軽快感に絡み取られる。音楽の力だ。市民の表情が何時もとは何処となく違って見える。文化の力だ。日本ジャズ界至宝のドラマーと呼ばれる森山威男カルテットの演奏に酔った。晩秋の午後、岡崎城能楽堂。市民は溢れ、求め、満たされていた。
先日私は京都洛北のとある寺院を訪れた。比叡山を借景に枯山水の庭園があり、それを眺める廊下に岡本太郎の解説があった。曰く「借景とは大自然と人工的な構築物との相対する存在の芸術的弁証法である」
何故祭に人が集まるのか、何故人は祭をやり続けるのか。そしてまた、これからもそれを持続することが大切なのか。私は考える。
この日、岡崎に行く前に、知多半島阿久比の秋祭りを観た。「萩大山車保存会」会長の青木賢治さんに山車の最上階に乗せてもらって巡行した。青木さんは山車の天井にオレのじいさんが寄付した名前が書いてある、このことはオレの息子が成長したら言い伝えていくと話した。日本の祭は先祖との邂逅であり、血の繋がりを継承する。
ここでも、人は溢れ、満ち足りていた。
私は現在、人の集まる原理をこんな風に整理する。
日本の伝統的な祭りは地縁・血縁の共同体を形成する力となり、持続力となる。音楽やスポーツなどで人を引き付けるイベントは文化力で人の心を捉え、集合させる。前者は歴史という経糸(たて)であり、後者は現世の緯糸(よこ)世界だ。この、いわば、縦糸と横糸でゴブラン織りにするのが磁力あるまちづくりではないか。それが、まちという空間を3次元から4次元空間にする。
その時まちは持続可能な、永遠の生命体と成る。
ただし、今後至學館大学で追求するのは、縦糸の論理、グローバルエコノミーが破壊する、地縁血縁を重視する共同体の再生である。