まず祭の名前を「天王祭」と呼ぶことに注目したい。津島神社の祭神であるこの天王は牛頭(ごず)天王(てんのう)のこと。牛頭天王とは元々インド祇園精舎の守護神で、我が国にわたって薬師如来の垂迹(すいじゃく)とされ除疫神として祀られた神様である。垂迹という意味は渡来宗教である仏教の仏が日本土着の神の姿で現れるという神仏(しんぶつ)習合(しゅうごう)の思想である。ここに、日本特有の祭の面白さをまず知っておきたい。この多神教を土台とする、神仏習合の日本人の宗教観が、ユダヤ教をはじめとする一神教の普及抑制に働いたのではないかというのが私の仮説である。
次にこの祭は川祭であるという点に注目したい。水があらゆる生命体の源であるという観念は原始の頃からあったのだろう。だから日本神話には瀬織律姫(せおりつひめ)という神が登場する。水に流すという日本語があるが、祭で人々の穢(けが)れを川に流して再出発という、伊勢式年遷宮の「再生思想」が祭に込められていると考えられる。
津島祭の最も大切な神事は御葭(みよし)神事と言って葭(よし)の束に神が降臨する。神迎えの宵祭、神送りの朝祭が終わった後、参詣者の穢れを一身に背負った御葭を川に流す神事を、神社関係者だけで行う。
神迎えをする宵祭には観光客が群集する。夏の太陽も陰る頃、4艘の車楽船(だんじりぶね)に提灯の明かりがともる。夜の帳が下り、凪いだ川面をゆらりゆらりと優雅に動き出す。桟敷にもたれ遠景から見る車楽船の動きはアニメーションを見ているようで、スロー文化の極致だった。
祭囃のついてはまた別の祭で述べるが、一言で言うと、所により祭により千差万別、邦楽としての様式は一定であるものの、ダイバーシティに富む。
ところで、元々この祭りは6月14・15日に行われていたが陰暦を太陽暦に変えて7月の第4土・日にしたという。私はこの祭日を変更する事には多少の抵抗を感じていた。陰暦と太陽暦の差には違和感は無いが、日曜日に合わせる考えに異議ありだ。1週間の6日働いて最後の1日を安息日と決めたのは旧約聖書である。が、東洋のコスモロジーには7という数にも意味を持たせているので、まあいいかと頑(かたく)なを捨てる気になった。
「日本の祭の最も重要な変わり目は見物と称する群れの発生、すなわち祭りの参加者の中に信仰をともにせざる人々、いわばただ審美的な立場からこの行事を観望する者のあらわれたことである。」と柳田国男は述べている。「祀る」が「祭り」になりさらに「まつり」になった。
大多数の見物客は、なぜこの祭をやるのか、だれが運営しているのか、考えはしないだろう。しかし、この600年の歴史を刻む津島天王祭は、日本人の先祖崇拝の信仰心が岩盤であることは確かである。
祭という言葉は広範囲に使用される。
そこで、私が使う祭の概念をまず規定させていただく。
今後私が報告する祭は英語で言うとセレモニーに限る。世に氾濫するイベントやフェスティバルの類の祭は除外する。要するに、宗教的な祭礼行事を伴う祭に限らせていただく。 また、祭という文字だが、「祭り」と送り仮名は使わず、漢字一字の「祭」とする。そもそもこの祭という文字は神職が祭壇にお供えを差し出した時の象形文字であり、スピリチュアルな美しい文字だ。
次に、日本列島津々浦々に存在する祭は、行われる季節、時期もその祭の動機に関係してくる大切な要素だ。
更にこの際私が提案したいのは、祭を見学したら、町並も注意を込めて観察して欲しい。祭と町を不離一体に捉えると、祭とコミュニティの因果関係が理解できる。「祭が町を育て、町が祭を育む」というのが私の持論であり、祭とコミュニティの研究を深めてみたいと考えた所以でもある。
そんなことを考えながら京都祇園祭を見学した。京都という大都会、7月の猛暑、むっとするような人いきれの渦中にいると、平安京の人々がなぜこの祭りを始めたかが読めてくる。疫病の流行忌避を神に祈ったのが祇園祭の起源だ。この祭りを主宰する祇園の産土(うぶすな)(土地の神)八坂神社には幾柱(神は柱と数える)もの神が存在するが、スサノオノミコトがスパースターだ。私は、日本の神々の中でこのスサノオに一番魅かれる。彼こそ日本神話のトリックスターである。
今年は後祭が半世紀ぶりに復活し、大船鉾が150年ぶりに巡航参加というトピックスがあったので、前祭(さきまつり)後祭(あとまつり)の2回観に行った。
日本の祭は神を迎えて祭祀し、鎮めて送ることを基本とする。京都市は戦後車社会の都市化に伴い、面倒なことは省き基本を簡略化し前・後を合体したのだが、それに気づきもう一度基本に戻し神送りを復活した。
これを主導したのは「祇園祭山鉾連合会」理事長の吉田孝次郎さん。私はこの方を風貌もひっくるめ、敬愛の念を込めて、イスラームシーア派の指導者だと表現する。彼は染色織物の研究者でもある。祇園祭の山鉾の文化財としての際立った価値は幕・織物類であり、それが京都の伝統的な地場産業と深く結びついてきた。
祇園祭の山鉾巡航を観、八坂神社に参拝し、祇園界隈の町屋を見学し、吉田孝次郎さんと会話し、京都という町と祇園祭に流れる通奏低音「不易と流行」が耳に残った。
この祭りを尾張の人は「ニシビの祭」と呼ぶ。枇杷島という地名の由来は面白い。町の境界を流れる庄内川の中州が枇杷の形に似てることからそう呼ばれるようになった。川を挟んで東側は名古屋市枇杷島町。従って、この「ニシビの祭」はほとんど名古屋タイプで、名古屋の空襲で全滅した那(な)古野(ごの)神社東照宮祭の山車そのものである。
祭を主宰する神社は複数の氏神、中心となる神社の顔が見えない。西枇杷島町は人口1万6千人、面積3平方キロの小さな町だったが、旧美濃路街道の面影を残していること、そしてその街道筋に、尾張藩の台所「下小田井の市」があった歴史で、近郷近在には一つの個性を放ってきたコミュニティだ。ところが、平成の行財政改革とやらで三町が合併、清須市となり、「西枇杷島」という呼称は祭にその名を留めるのみになった。
この祭りの見どころはからくり人形と見た。
山崎構成氏の名著「曳山の人形戯」によると、曳山にからくり人形を乗せる祭の7割は中部圏にあるという。知多半島を北に列島を縦断し能登半島に至る文化の帯がこのからくり人形の祭の集積地帯だという。
因みに、江戸時代、幕府は一種の軍縮政策で、あらゆる技術的な発明発見を禁じた。が、祭だけは左にあらず、理数系の才能は祭のからくり開発に覇を競った。その流れは関東では歌舞伎に向かい、関西では文楽に向かい、中部圏はからくりとして発達。今日中部圏の持ち味である、モノづくり、産業技術の土台となったという説を聞いたことがある。
西枇杷島祭のからくり人形の舞はレベルが高かった。山車は全部で5台、すべて江戸末期の作であり、各町内の山車にはからくりの主人公の名前が付けられている。橋詰町は王義之車、問屋町は頼朝車、東六軒町は泰(たい)亨(こう)車、西六軒町は紅塵車、圦西町は頼光車。
今年は橋詰町の幕を新調したというので解説を聞いた。前祭には簡単な紺幕、本祭りには猩々緋の幕を飾る。山車の前に掛ける幕は王義之流の書が金刺繍で施され、山車中段の幕には金具で蝙蝠(こうもり)の図が描かれている。蝙蝠は福を呼ぶと言われ、町内の繁栄と幸せを願う象徴である。彫り物の解説も長い、江戸末期名古屋の彫師森藤九郎住永の作、屋根や高欄部は河甚作という。山車のことを動く総合工芸品と称するゆえんである。ハイライトは山車の名前となっている王義之と2体の唐子人形。からくり人形には唐子と呼ぶ人形が登場するが、唐子は唐の国のことであり、服装もまさに異国のファション。王義之といい唐子といい、我々の先祖は故郷の神に異国の物語を奉納するわけだ。
日本列島は、ギリシャ・ローマ文明がシルクロードを経て東進し、中国文明を吸収してこの国へ至った世界文明の最後の終着点だった。そして、江戸期に発達した都市の祭文化はその爛熟だという見方もできる。
祭を語る前に町について語る。祭を観る前にその町を知ることが祭を包括的に理解することになる。祭は町の個性を表現する。
私は大垣という町が好きだ。天下分け目の関ヶ原の会戦、敗軍の将石田三成はこの大垣城から出陣した。大垣城に立つと滝廉太郎の古城「昔の光 今いずこ」を思い出す。
大垣城は戦国の栄枯盛衰を語る名城である一方、現在の大垣市は、岐阜県一のハイテク都市として繁栄する活力に富む町だ。
五月晴れの青空に祭の幟がはためく大垣八幡神社へ祭を見に行った。
大垣市は日本列島のど真ん中に位置する都市らしい。濃尾平野は緩やかに鈴鹿山脈まで西に向かって降る。木曽三川の豊かな地下水脈はこの地で湧出し、大垣は水の都と呼ばれ、俳聖芭蕉終焉の地でもある。
文化の香り漂うこの地の祭は大垣八幡神社の祭礼である。この神社のルーツは東大寺の自領であったという。因みに、現在わが国には神社が86,440社あるが、そのうち八幡社は7、817社。2位の伊勢信仰4、425社以下を大きく引き離して突出している。
八幡神社のご祭神は渡来人秦(はた)氏(し)の氏神であるが、聖武天皇は奈良の大仏殿建立に際して八幡神を護り神としたことにより、日本民族の最もポピュラ―な神となった。「南無八幡大菩薩」という言葉は、日本人が何か願い事をする時唱える典型的な神仏習合の呪文である。
ここ大垣祭は13台の曳山が登場する。車偏につくりは山の字を当て「ヤマ」と呼ぶ。そしてそのすべてのヤマには人形が乗り、更に歌舞伎を演ずる舞台がついている。子ども歌舞伎は楽しい。
私の住んでいる犬山の祭も13台の車山(ヤマ)が繰り出す。そして私の町内は舟形の車山であり、浦島のからくりを演ずる。今年大垣祭の浦島ヤマが昭和20年以来の再建を遂げたと聞いたのでそのヤマについて回った。
友人の庭師から、日本庭園の美学は造った時点から完成は30年後を見据えているという深い話を聞いたことがあるが、大体日本の工芸文物は歳月を経て骨董の次元に入らないと光らない。再建は祭関係者の壮挙ではあるが、今日浦島ヤマ(山偏に車)を見て、いまだ未完成品だと愚考した。
大垣祭の特徴、歌舞伎についても語りたい。歌舞伎も本来神社への奉納の舞が根底にある。
アマテラスが天岩戸に隠れ、この世が暗闇になった時、危機を救ったアメノウズメの踊りとテジカラオの怪力の物語は日本神話のハイライトであろう。出雲の阿国が歌舞伎を始める前にアメノウズメという神がいる。そして、江戸時代の歌舞伎文化こそ世界文化遺産に認定された日本人の演劇文化である。
大垣八幡神社を中心に屋台が立ち並ぶが、この的屋文化については他の祭で論ずる。
知立市の出しているパンフレット類はすべて「まつり」とひらがなで書いてある。祭の字の下の部分「示」は三方の形、上は肉月で生贄の供え物を意味する。すなわち、祭という漢字そのものが神に捧げものをする時の象形文字であり、「祭」と必ず漢字で書いて欲しいものだ。これは由緒ある知立神社の権威に関わることだ。知立祭を主宰する知立神社の由緒は古い。熱田神宮、三島大社と並び東海道三社に数えられていた歴史がある。筆頭ご祭神はウガヤフキアエズ。鵜の羽の上でお生まれになったと聞いた時、犬山の鵜飼に熱中していた私には親近感を覚えた神、初代天王神武の父であり、神話世界最後の神だ。
知立祭は5月2・3日に行われる。日付が固定してあることも嬉しい。というのは、全国どこの神社も1年の例祭日は毎年固定しているのだが、観光客に配慮して例祭日に近い日曜日に毎年毎年祭の開催日を変更する。要するに、観光向けの祭になりつつある。祭の権威を測る尺度として、このことを頭の片隅に置きたい。祭の原点はその土地のご先祖との邂逅である。神となった先祖を迎え、五穀豊穣や厄除けを願った信仰そのものであった。その点で知立神社には権威がある。
知立祭には5台の山車(ダシ)と呼ぶ曳山が繰り出す。「担ぎ上げ」といって、巡行中町角へ来ると、高く大きな山車の一方を担ぎ上げて回す。かなり傾くので見物しているものはハラハラする。担ぎ手である若い衆が格好良く見える祭の見せ場であろう。
祭には厳粛な神事と、喧騒な行事が共存する。酒を飲んで騒ぐことは神もお喜びになるという解説を正統な神職から聞いたことがある。祭の行事の中で風流(ふりゅう)とか練物(ねりもの)と呼ばれるものは今で言う所のパレードであり、何でもありでいいのだ。祭に伴う騒ぎに大衆文化の歴史的絵巻を見る。
5台の山車の1台はからくり人形だが、4台は文楽を奉納する。この人形浄瑠璃が知立祭の白眉であろう。私は数年前、この文楽を語る義太夫を聞いたが、その語りは90過ぎの方だった。感情移入され高揚した語りの声とベンベンと重く低く響く太三味線のハーモニィが知立神社の社に木霊し、日本音楽の美を耳に留めている。
邦楽の世界では70過ぎてから声も技術も上達するという話を聞いたが、それは正座という体勢が体の使い方にロスを生まないそうだ。とにかく、日本の文化と欧米の文化は根本からその考え方と様式が違うという事を、祭をやっていると思い知らされる。
日本人はその様式とその奥にある思想を明治以降捨て去り、忘れてしまったのではないかと思えてならない。
今年の知立祭は「全国山・鉾・屋台保存連合会」の総会と兼ねて開催された。この連合会に所属する32の祭がユネスコの無形文化遺産になる可能性が出てきたからである。