アーカイブ: 2014年3月

3月24日 靖国神社

パーマリンク 2014/03/25 07:38:15 著者: y-ishida2 メール

最近祭について論ずるようになり、神社とか神道という宗教について今までより深く考えるようになった。また政治という職業に従事し国会議員も経験したので、靖国神社というものの存在について改めて私なりの考えを整理することにする。
私がそもそも祭りに関心を持ったのはもうかれこれ20年も前、犬山市長選挙に立候補した時だ。さる方から、市内の神社をすべて回ってみなさいと言われ必勝祈願で回った。人口75000規模の町に65の神社があり、そのすべては誠に美しく清掃され整っていた。 そこに日本人の神社を中心とする精神世界を垣間見、その後多少の勉強もし、日本の祭は神仏習合であり、日本人の信仰心のエッセンスであると悟った。
祭を知ることは、日本人はいかに生きてきたかを知ることであり、これから何処へ行くかを考える一つのヒントになる。
この経験が、祭研究をしてみたいと思ったモチベーションになった。
太古の昔、われわれ日本人は死ぬと山に葬られた。その死者の霊を時々お迎えして祀ったのが祭の始まりである。欧米人の人生は生者のみの世界であるが、日本人は、生者と死者を区別しない民族であるらしい。
まさに全国津々浦々澎湃として持続している日本の祭は死者の霊を迎え、邂逅し、対話する場と時なのだ。そして、そのすべては死者を生み育てた、故郷と共同体へのアイデンティティに収斂する。

ところが、日本中でただ1ヶ所毛色の違った神社がある。それが靖国神社だ。
私は、叔父が太平洋戦争で戦死し靖国神社に祀られているので、政治家になって以来何度も参っている。「遊就館」も見学し、戦争の歴史に思いを馳せ、当時の日本人はたいしたものだというかって経験したことのない質の感動に襲われたこともあった。
が、冷静になって考えてみると、あの靖国神社は戦争を礼賛しているようにもとられかねない施設だ。そこまでは考え過ぎにしろ、あの神社は明治以来、日本には日本の事情があったにせよアジア各国を侵略した歴史を否定していないことは事実だ。
靖国神社は、国家の意思で戦争を起こし、戦死した軍人に限って、その霊を弔うのではなく、顕彰し、軍神と崇めることによって次の戦争に向かう軍人の士気を鼓舞する、国家による戦争肯定の装置であったと考えるに至った。
偏狭なナショナリストの戦争肯定論も世の中にはあろう。靖国神社はそういった「タリバン」に支持された国会議員が参ることも止めようはない。しかし、総理大臣や閣僚が参ることは、国家の意思となる。諸外国から日本という国が戦前の植民地政策と戦争を反省せず、本音では肯定していると捉えられても誤解ではない。
私は以前司馬遼太郎の歴史小説の虜になり、明治国家の讃美者だった。明治時代は透き通るような青空の明るさがあったという司馬の表現を素直に信じていたものだ。が、最近祭の研究をするに従って、神道という日本古来の宗教を非宗教化し国家神道にし、廃仏毀釈を断行したこと、靖国神社を作り、アジアへの侵略の守護神にしたことなどの歴史を考えると、明治国家の罪は深いと見方を改めた。
日本史の中で、わが国の近代化は、宗教の世界に深く大きい傷を負ったと思うようになった。

3月2日 からくり人形

パーマリンク 2014/03/07 07:44:36 著者: y-ishida2 メール

映画「鑑定士と顔のない依頼人」鑑賞。
なぜこの映画を見る気になったかというと、「からくり人形」が登場すると聞いたからだったが、テーマ自身面白かった。
テレビの「なんでも鑑定団」はなかなか興味引かれるストーリーテラーだ。以前、台湾の故宮博物院へ行った時、「古物霊あり」という言葉を教えられた。古い文物には一種の霊があり、その価値を知る人の手元へ必ず吸い寄せられるように落ち着くという思想。北京から台北へ中国4000年の歴史を持つ文物が移動した物語を表していた。テレビの「なんでも鑑定団」やこの映画のオークションのように、審美眼や時間の淘汰の試練を経た価値を持つ骨董品に値段をつけるのはいかがなものかと思うが、そこは経済学という分野に妥協しよう。
しかしながら、この骨董世界には金銭には表現不可能な価値観が決定的なファクターになることが重要だ。そこに反面、人の心の不確実さみたいな不安定のフィクションが入り込む。
言葉を変えると、詐欺師的なキャラクターも十分入り込む。それはそれで、面白さもある。事実、私の周りの骨董愛好者の話を聞いて、さて、どこまで信用していいのやら、私は時として聞き流す。
この映画がそもそも数値では表現出来ない価値観を有し、虚構で成り立つ骨董世界を舞台にして、男女の恋愛感情も絡めたミステリー仕立てで、最後のどんでん返しまでのストーリーを盛り上げるのは、誠に当を得た発想と感心した。ミステリーとどんでん返しはこの世の常ではないか!
さて話を初めに戻し、からくりについて述べる。主人公の天才鑑定士バージルを嵌めていく詐欺師を演じる脇役の青年技術者が、顔のない依頼人(主人公とこの謎の女性との恋に落ちる過程もからくりである)宅で拾う部品から、からくり人形を組み立てて行く過程に私は関心を持った。このからくり人形はオートマータと呼ぶ自動仕掛けの笛吹き人形であり、作者は18世紀フランスの天才的技術者ヴォカーソンの作であった。当時、フランス、ドイツなどヨーロッパ各地にオートマータの技術は驚くべき域に達したが、時を同じくして、わが国のからくり人形もほとんど同じくらいのレベルに達していた。西洋のオートマータが、貴族社会を中心の文化であったのに比べわが国のそれは、座敷からくり、興業からくりもあったものの、主流は祭礼での神への奉納として発達普及したものだった。
現在でも私の故郷犬山祭には30体以上のからくり人形が祭のときには元気に動き、「鑑定士と顔のない依頼人」に出てくる18世紀フランスのからくり人形となんら遜色のない動きを見せる。
この映画で、主人公の鑑定士が笛吹き人形の部品を拾って、宝物でも見つけたような驚きを示す場面があるが、犬山祭の凄さを改めて再認識した映画であった。

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