モンキーセンターが主催するモンキーカレッジで河合雅雄さんの講義があった。80歳を超えておられるだろうが研究心と知性が横溢した講演だった。
河合さんは、多くを学んだ人生の師である。教育行政に精力を傾注したが、一番重視した「学力観」は河合さんの著書「学問の冒険」から示唆を得た。河合さんは、冒険という言葉を大切にされたように思う。冒険という行為はワクワクするような心の躍動感を連想させ、私の大事にしたい内発的な情熱であり、学びの源泉だ。
戦後、世界に先駆けて日本でサル学が始まった理由や、それが何故犬山でスタートしたのかなど、河合さんの話を聞きながら確認することができた。将来学問として絶対食っていけないといわれたサルの研究にあえて入ったこと、アフリカでゲラダヒヒと一緒に生活し、その研究に没頭したこと、ゴリラのかかる病気に伝染したことなどなど、以前聞いた話ではあったが、まさに学問の冒険の実践談だった。
犬山市長当時、河合さんが犬山は市域の7割が美しい森で覆われ、その中にたくさんの文化施設が点在しているから、オーストリーの「ウィーンの森」をモデルにしたらという話をしてくれたことがあった。「森のまち」やら、生涯学習としての「全市博物館構想」を立て、河合さんに名誉市民になってもらい、市制50周年の式典に記念講演をお願いした。また当時文化庁長官であった実弟の河合隼雄さんにもこの「全市博物館構想」を激賞してもらったことがある。自画自賛めくが、文化力-ソフトパワーこそが犬山のまちづくり戦略であった。
河合さんはサルの研究を通して、人類とは何ぞやという事を問い続けられた。比較はおこがましいが、私は祭を通して、日本と日本人は何かを求め続けようと心に決めた。
志学館大学内にある「伊達コミニュケーション研究所」での活動がスタートした。
私は今後この研究所の所長になって日本の伝統的祭の研究をしようと考えている。まだ具体的ではないが、当面今秋11月をめどに「日本の祭シンポジューム」を開催する。そのためにまず中部圏の足元を固めなければいけない。今日は愛知・岐阜・三重の祭関係者30人位に集まってもらった。
予め次のような4点の質問を通知しておいた。
1 あなたは何のために祭をやっていますか
2 あなたのやっている祭の現在抱える問題点を述べてください
3 当研究所に臨むことを教えてください
4 今秋全国規模のシンポジュームを開催したいと思っていますが、ご意見をください
活発な意見交換があった。
祭の実施者たちは概ね、子供の頃から祭の中で育ち、大人となり何気なく祭担当の役をやるようになった、しかし祭りを通して、地域社会に貢献したいと発言した。
困っていることも共通している。人手不足、資金が足りない。文句は言うが協力しない住民が増えた。等々。祭のお囃子がうるさいと言う住民がいるという意見もでたが、そんな人は引越していってもらえと冗談交じりのヤジが飛んだ。
最後に清須の日吉神社宮司三輪さんが、いい総括をしてくれた。戦後日本人は故郷を捨てて都会へ集中したこと、核家族化し共同体の形が崩れたこと、欧米文明の根底にあるキリスト教は個人主義、日本古来のライフスタイルは共同体であり、祭りを取り巻く環境が大きく変化したという。
祭りの研究者は、民俗学、民族学、社会学、宗教学、歴史学などの分野に大勢いる。が、祭りを実施している人たちがこう言った話し合いをすることはない。
祭の研究とは、日本人は何か、日本という国はどういう国かを探し求める巡礼の旅である。
話とか言葉について考察してみる。
政治家という職業は話すことを武器とする。
だからスピーチは自分なりに意識してきた。話は言葉で成り立つ。書き言葉、書物を読むこと、文章を書くことも言葉の意味を考えさせるが、われわれは言葉の前に考えがある、まず何を考え、何を思い、何を伝えようという内発性があって、次に言葉と表現の技術の問題になる。私はスピーチをする時、自分自身に、これから私の伝えたいことはこのことである、このことについてわかって欲しいというその1点を明確に脳裏に描いて、それがあふれ出るようなイメージで人前に立つことにしている。その1点は絶対に自分の言葉で、強い音声のストレスを伴わなければ人に伝わらないと思ってきた。そのことこそがスピーチの生命であり、政治家の武器であると考えてきた。
最近大学の関係者と親交が深まり、いわゆる学術的な世界に縁が広がった。この世界は書物からの引用を多用し、資料がやたら多く、IT技術を駆使する。今までの政治世界では、例えば、街頭演説であったり、大衆に向かってのアジ演説などは、資料を読んだり、パワーポイントを使うことなど考えもしなかった。だから、多少のためらいを覚えながら、ここのところ言語表現に関する異質世界に踏み込もうとしている。
この新たな挑戦のため、今日パソコン教室を経営する友人を訪ねた。パソコンを使っての講演の仕方を学習し終って、間もなく始まる参議院選挙、「ネット選挙」の話題になった。日進月歩進化し続けるネット社会のことはどう考えたらいいのか正直私はまだわからない。パソコン教室でメシ食っている友人ですら「これがいいか悪いかは別として」という前置きでものを言う。要は、ネット社会は大きな光の反面、影、落とし穴が明らかにある。引き続き、今夏の参議院選挙を取り仕切る選挙関係者も入れて更に議論を深めた。自民党は電通や博報堂という大手の広告会社に委託し、徹底的にネット選挙対策を研究しているそうだ。私はその情報を聞いて、自民党というのは相変わらず金の力で物事を考える組織だと思わずにはいられなかった。ウェブ社会とは、組織を使わず、金をかけず、名もなき大衆が世の中を動かす、一人一人すべて平等の人権を有するという民主主義のツールとなりうるから肯定されるのであって、これがまた従来のような金と権力の側に有利に働くならば、何も時代を切り開く文明たりえなのではないか。更に、ネガティブキャンペーンやヘイトメールの弊害のほうが大きいのではないか。また、政治家のツイッターやFBの文章は、政策を書いてもほとんど読まれない、今日は何を食べた、何処へ行った、面白かった、楽しかったとだけつぶやいていれば、選挙の投票に繋がるらしい。これからの世の中について行くにはよほどの覚悟がいる。