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昨日白雲座歌舞伎を鑑賞して感じたことを述べる。
1 芝居小屋は国指定重要有形民俗文化財であり、堂々たるものだ。建物の中に入った瞬間われわれはタイムトンネルを潜り抜け江戸時代の空間に誘われる。室内の広さもほぼ満席で300人ぐらいかと思われ、心地いい広さではあった。あの花道という様式も歌舞伎特有と聞くが、いいものだ。ただし、われわれのライフスタイルは21世紀の中にあり、とても2時間も3時間も座り続けることに耐えられない。芝居の面白さよりも肉体の苦痛に耐えることに気が行ってしまって、集中心が散漫になることが惜しい。今後外国人にこれを鑑賞させるなら、一考すべきテーマではある。
2 入場料金は決まっていない。志ということである。このことについて私はひそかな感動を覚えた。資本主義は人間の営みに、たとえそれが文化的な行為ですら金銭の価値に置き換えて評価しなければわからなくなってしまった。お代はお志という考え方に、実は経済活動のそもそもの原点があるような気がした。貨幣とは人類が発明した最大の遺産といわれているが、資本主義の発達は今や貨幣がモンスター化するまでになってしまった。世界中の大問題となっているグローバリー経済の欠陥は、カネが実体経済を離れて独り歩きしかけたことにあるのだ。
3 子供が長いセリフを覚えて喋っている。今その意味はあまり理解出来なくても、この子らはこの台詞を一生覚えているに違いない。江戸時代、教育の原型は教科書の素読であった。子供歌舞伎には大人たちも「おひねり」の嵐で、心底好ましかった。
4 10年以上前にドイツの田舎町でイタリアオペラを見たことがある。言葉が違うが見ている人たちは、その筋書きをすべて知っていて俳優の歌唱力を楽しむ。かっての日本人は歌舞伎のストーリーとその場面での台詞はすべて分かっていた。今の日本人には、歌舞伎とは、いったい何を言っているのか何をやっているのかわからなくなってしまっている。世界文化遺産になりながら、自国の伝統文化について訳が分からなくなったことの恥ずかしさすら感じない。
おかしなことではないか。