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実は名古屋市長選挙も下呂市長選挙も、私のこの議員内閣制に賛同する市議会議員グループの熱心な要請に応えたものでした。それはこの改革が議会側からはできず、市長がその気にならなければできないものだからです。
言うまでもなく、選挙というものは支援者があって初めて成り立つものですが、同じくらい大切な要素は本人の意思です。とは言え、選挙に立候補するということは、誰にとってもたやすい決断ではありえません。まず資金が要ります。妻をはじめ親族の同意が不可欠です。決心する時は迷います。迷いに迷いを重ね、眠れぬ夜を幾夜も過ごす懊悩地獄を彷徨わねばなりません。信頼する人が反対するアドバイスは、砂地に水がしみこむごとく心の奥底に届くものです。
私の敬愛する親友の一人である各務原市長の森真さんに相談に行った時のことは忘れることができません。彼は頭から反対でした。その大きな理由が、下呂市の財政の悪さです。専門用語になりますが、自治体財政力の健全性を見る指数に「財政力指数」と言うのがあります。この数字が下呂市は極端に悪く、8年前の町村合併の後遺症を引きずり、このままの状態を続けると近い将来、北海道の夕張市のような破産自治体になる可能性無きにしもあらずの状態です。財政力のみならず、丁度人体の健康度を見るため、ドックに入りチェックするように、自治体を診断する数値がありますが、それらの数値が軒並み悪く、下呂市は人間でいうと成人病にかかったようなまちなのです。下呂といえば温泉地として日本三名泉の一つに数えられ、自治体としてはいわば老舗に属しますが、内実は火の車、なんだかユーロで話題になっているギリシャのイメージと重なりました。選挙というリスクを背負ってまで、あえて好き好んで飛び込む程の価値はないと、考える方が常識的でしょう。
最後は自分で決断するしかありません。自ら顧みて直くんば、敵百万たりとも我ゆかんの心境です。
正直、私は地方議会改革の実現に取り付かれてはいましたが、民主主義を成熟させるためには議会制度の改革が必要であるなどと理屈を並べても選挙にならないということも十分わかっていました。