« 5月25日 犬山城 | 5月16日 愛国心 » |
トポスというのはギリシャ語で場所という意味であり、パトリは祖国とか故郷という意味である。祖国とか故郷への思いや愛は必ずその感情を形成する場所がある。われわれの精神は生活する場所から決定的に影響を受ける。私のパトリは生まれ育った山川草木とそこに住む人々がトポスだ。木曽川の四季折々の水音や風のそよぎや犬山祭の笛の音や町中の雑踏や隣近所の人たちの何気ない会話が故郷への愛となり祖国というものへの無意識の誇りになっている。
私は、人に語るほどの読者家ではないが、小説を読むことは好きだ。
司馬遼太郎に夢中になり、彼の著作は寝食を忘れて読んだ。「翔ぶが如く」の読後は薩摩まで出かけ、西郷の生まれた土地に立つことで明治国家の高揚感に自らを同調させたし、「坂の上の雲」の読後は竜馬とともに歴史の回転を潜り抜けた。司馬の小説には日本の山川草木と風や匂いが感じられた。祖国と故郷の肌に触れる思いだった。司馬の文体にも魅せられた。心身に心地よいというか、日本語と漢字の持つ力にいつも嬉々とした。
また、私は村上春樹の小説にも寝食を忘れて嵌まり込む。最近話題の「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を読んだ。物語の展開の面白さに引き込まれ、一気に読み終えた直後、暫く人生と世間が仮想現実のような錯覚に囚われた。村上春樹の面白さは、人生を掘っていく、地中深くに入り込んでしまう感覚だ。読書中の思考がまるで異次元の世界に誘われる。リスト作曲のピアノ音楽が聞こえてくる。
司馬遼太郎と村上春樹を比較し、トポスとパトリという事を考えた。
戦争の体験者でもある、司馬の世界には実に明確なトポスとパトリがある。一方戦後生まれの村上春樹にはトポスとパトリが掴めない。勿論村上春樹作品にも、戦前の日本についての言及はある。が、彼のスタンスは世界から日本を見ている。
かって、川端康成がノーベル文学賞を受賞し、三島由紀夫が候補に挙がった頃は日本の伝統的な美意識こそ世界に認められる基準かと思ったが、村上春樹がノーベル賞候補と聞くと世界が日本を見る目も違ってきたのかと思う。私は村上春樹の文体にも強く見せられるし、実に平明でかつ深い日本語で書かれているのだが、何か違う。日本の故郷や祖国の匂いを感じない。この感覚は私だけの感覚なのだろうか。
実は今、国内外で始まりかけた新しい時代の模索は、司馬の世界で行くのか、村上の世界で行くのかの分水嶺のような気がする。われわれの故郷や祖国はいったいどこにあるのか。一体どこに立ったらいいのか。
私と言ったら体勢は村上ワールドに軸足を移しつつも、初夏の薫風が運んでくる司馬ワールドの太鼓の音が気になって仕方がない