アーカイブ: 2014年5月

5月1日 葬式

パーマリンク 2014/05/03 14:30:30 著者: y-ishida2 メール

「本来無一物」―書斎に掲げた禅語である。    人間は誰でも無一物でこの世に生まれ、無
一物で死んでゆく。死ぬ時はなんの肩書も金
銭も関係ない真裸で、生まれた時と同じ状態
で去ってゆく。
年々身の回りに身近な存在の人物が去って逝くようになって、私も頭の片隅に自分の死というものがちらつくようになった。
さらに、祭の研究をはじめ、知らず知らずのうちに宗教の世界に関心が湧くようになり、宗教学者島田裕巳氏の著作を数冊読み、最新作「0葬-あっさり死ぬ」で考えさせられた。

職業柄、膨大な数の葬儀に出てきた。
政治家稼業は一面、冠婚葬祭業といってもいい。正直、葬儀には、故人にあまり悲しみの感情移入がなくても行った。政治家は、葬儀場の供花みたいな存在であると思ったこともしばしばだった。祝い事は前もって日程が立つから都合がつくが、葬儀は突然だからやりくりに困ったものだ。だから私は通夜を重視した。通夜も、来訪者がおさまった頃を見計らい親族と会話できる頃行く。通夜に集まる親戚の相関図は政治家にとって選挙運動の最良の手引書だ。

話を戻す。
「0葬」によると日本の葬儀費用は世界一高いと言う。我が国では、平均で葬儀代が200万余円、墓を創ったらまた200万円、合計400万余かかる。アメリカ44万、イギリス12万などと比べると法外な金額になる。
今後我が国は団塊の世代が死ぬから、増々死者が多くなり、葬儀関係のビジネスは有卦に入る。需要と供給の経済原則で、葬儀にかかる費用はますます跳ね上がるだろう、と見る。
島田裕巳氏は、通夜も告別式も必要ない、死体を火葬場へ持っていき荼毘に付し(火葬にすること)、骨も受け取らなければいいと言う。骨を受け取るから、墓も要るわけだ。
どうしても規則で受け取らねばならない場合は、自分で砕いてそのあたりに播けばいい。それを「自然葬」と呼び、荼毘に付すだけで完了を「0葬」という。
伊藤栄樹(しげき)という御仁は「人は死ねばゴミになる」と言ったそうだ。この人は1985年検事総長をやった人だが、さすが法律家らしい表現ではある。しかし、この言葉を宗教的、あるいは文学的に翻訳すると、「人間本来無一物」とアレンジできないこともない。

私が犬山市長になったのは1995年だった。その後、2000年から介護保険が始まり、全国何処へ行っても介護施設が見る見る激増した。
そして、次に来るのは葬式に違いない。南海トラフの如き、団塊世代死亡の大津波が列島を襲う日も近い。
最近、超高齢者の葬式を聞いて「あの人まだ生きていたの」という世間の声を聴く例もしばしばある。肉体の死と、社会的な死との間隔が空き過ぎて、別れのリアリティが空洞化現象を起こす。

私の葬式は「0葬」で行くかどうか今少し時間をかけて考える余裕はまだある。

4月29日 褒章・叙勲

パーマリンク 2014/05/03 14:18:30 著者: y-ishida2 メール

27歳で国会議員の秘書となり、政治人生に飛び込んだ当初、新聞を読んで世の中の情報を知ることは駆け出しの大切な日課の一つだった。
政府から国家褒章と叙勲が発表されるとその受章者に祝電を打つことは重要な仕事だった。何しろ、受章者は国家が認める卓越した功労者なのだから。
若い時その癖がついたので、以降春と秋、昭和天皇と明治天皇の誕生日に発表されるこの二つの表章者には必ず目を通す。そして、人生の名誉についていささか思いを馳せ、また自分の心の中で歳と共に微妙に変化する人生の価値観の変化にも気付く。

褒章受章者800人、叙勲4000人、すべて政府が関与する。内閣府の賞勲局がまとめるのだが、形は内閣総理大臣が天皇に上奏し栽可を受け発令する。
受章や等級の名称を聞くと、なんだか日本史で学習した、古色蒼然、律令制が蘇えるような気がする。
叙勲の位階の高い人は親授式と言って天皇から直接、その他は総理からの伝達式、大臣、知事クラスに分かれる。いずれも、受賞後、配偶者同伴で天皇に拝謁の栄に浴す。
受賞者の中には、受賞後、盛大なパーティを開催する人もあり、そんな席に何度も出席した。
かって出席した政治家だったが、ユーモアを交えてこんなスピーチをした。
「この度不肖国家褒章の栄誉に浴し、天皇陛下に拝謁賜った。妻も着物を新調し、新幹線で上京、最上のホテルに泊まりそのうえこのパーティと、随分金も要った。何がそんなにいいかといって、私が死んだら墓石に褒章の文字が刻める。一族郎党子子孫孫、誠に名誉なことである。」
私はこのスピーチを聞いて、瞬間江戸時代の狂歌を思い出した。
「虎は死んで皮残し、人は死んで名を残す」。

褒章も叙勲も必ず推薦者がいる。自薦ではなく他薦制である。関係団体とか業界が、ほぼトコロテン式に組織のトップを根回しし受章させる仕組みになっている。叙勲は原則70歳以上だが、褒章は違う。私も自治功労で対象者になってはいたが、犬山市長の時、事務担当者に、私の申請はしないように伝えた。世の中には、受章が決まってもあえて受けない人もいるので、あらかじめの打診がある。私は、公職を勤めさせていただくことそれ自体が名誉なことと考えていたので、これ以上は不必要と考えた。
受章者は例外なく立派な方々であり、偉大な人生の証であることに、一点の疑いを持たない。が、あえて言うと、人の人生に階級をつけ序列をつける発想に私は賛同しかねる。
また、褒章や叙勲の対象にならない人物、人生に、輝くダイヤモンドのような存在がどれほど多くいることかという事を考えるのも今日、「昭和の日」という国民の祝日かもしれない。

2014年5月
 << < 現在> >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

XMLフィード

16ブログ     multiblog platform