ページ: << 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 ... 13 >>
私は愛知県議会議員を12年務めたし、知事選挙も経験したから、県内の自治体は大抵一つのイメージは持つことができる。正直刈谷市には、財政が強く、トヨタ系の製造業を中心にした2次産業の町というイメージしかもっていなかった。
自治体が工場を誘致することは固定資産税が増え雇用が確保できるので、積極的に推進したい政策だ。ところが、製造業の工場が増えると、一方町は人の結びつきが薄れ、何となく無機質になり面白味を失う。刈谷市は、典型的な面白味を失った工業の町だと万(まん)燈(ど)祭を見るまで思っていた。
ところがこの万燈祭を見て、私の刈谷に抱くイメージは一変した。
話は逸れるが、東京に住む人の半分は仏壇が無いという話を聞いたが、仏壇がなければ仏間もなし、先祖の位牌や思い出を語る写真などもないであろう。その家の由来を知ることが出来ぬ。自治体のホームページもそうだ。その町の歴史や、過去の由来などその町の履歴を詳しく書かない自治体が多い。現在の行政サービスや財政状況や医療・福祉・教育などのマニュアル化された数値の記載だけではその町に特別の関心を寄せることは難しい。 その点で、刈谷市のHPはなかなか出来が良いし、杉浦世志朗さんは観光協会の会長としてふさわしい積極的な方だった。
万燈祭は秋葉社の祭だ。1756年秋葉社の前身秋葉堂で火伏せの神信仰が行われたという記載を嚆矢とする。火伏せとは火難防除であろう。1852年雨乞い祈願に万燈が登場する。念のために万燈とは仏前にともす灯火のことである。火避けが雨乞いになったところが面白い。現在は10数基の、高さ5m幅3mの歌舞伎や武者をかたどった大万燈を竹と和紙の張子人形で造る。60Kぐらいあるらしいが若い衆が1人で担ぎ、周りを50人くらいの人たちで囃子に合わせ盛り上げる。「天下の奇祭」というキャッチフレーズがついている。氏子の7町内の他に、刈谷はトヨタ自動車の町であるので、本社があるデンソーが全面的にバックアップ、会社から大万燈を出す。デンソーの若い社員は地元の若い衆に比べ何となく品が良い。やはり、会社の体面を気にするのかもしれない。祭を盛り上げる若い衆は多少ヤンキーな兄ちゃんのほうが実は似合う。それと、根本的には祭は共同体、会社は利益追求の組織体の違いがある。社会学で言う、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの違いだ。しかし、祭りを運営する側に立つとトヨタの応援は財政的に大変プラスで有りがたいという。そうだろう。
この祭を面白いと思ったのは、祭の主旨が雨乞いにあることだ。旱魃は農村地帯では致命傷だったのだろう。今の時代非科学的だと笑う前に、稲作が日本の農業の原点だったことを考えると、この祈りの意味が肯ける。
祭は科学万能に対しアンチテーゼとなる。
今年3月日本の伝統的祭の中で、国の重要文化財に指定されている32の祭がユネスコの無形文化遺産候補として文化庁が推薦した。 我が国には民俗文化を伝承する優れた祭は多い。が、いわゆる文化財として公的な機関が認定するためにはまず、モノとして見えたほうが判定し易い。例えば、ねぶたや御柱のように、祭のつどモノが無くなっては蓄積された文化財として判定しにくいという問題が生ずる。それはそれで、無形文化財となるが、モノとして修理したほうが公的な補助金はつけ易い故に、そういった祭は組織を作って補助金の獲得に励むようになる。だから、文化財指定の祭はいわゆる曳山(ひきやま)タイプが多くなる。その曳山祭で、「全国山(やま)・鉾(ほこ)・屋台(やたい)保存連合会」という組織を作っている。この組織に属した32の祭が世界遺産候補になった。愛知県に5か所あり、全国最多。蟹江の須成祭はその1である。
須成祭は今まであまり世間に知られていなかった。何故か。一言で言うと、祭関係者が人に見せようとか観光客を呼ぼうという発想が薄かっただけのことだ。いわゆるポピュリズムに流されなかったという事ではないか。
須成祭は津島天王祭と同じ夏の川祭、牛頭(ごず)天王信仰で、夏の疫病退散と五穀豊穣を願うと聞いたが、葭(よし)を刈ってきてご神体とし、葭で禊(みそぎ)を行い、川に流す神事が祭の中心思想だ。
祭前後7月初旬から10月中旬まで約100日間かけて数々の催事があり、別名「百日祭」と呼ばれていると聞いた。祭の全貌はとても見学することはできないが、町の民俗資料館でこの百日祭のビデオを見た。神社の氏子たちが総出で葭を刈る、車(だん)楽(じり)船(ふね)に乗せる人形やその飾りを作る。その他もろもろの祭の準備とそれに伴う仕事をこなすありさまを見た。祭りにプロなどいないし、全員が普通の住民であり、奉仕の精神で取り組んでいる。全て、祭の為である。祭が住民の絆をつくり、住民が祭を育てる。いわゆる共同体の原点であり、コミュニティのあるべき姿であると心から感動した。
蟹江町は平成の合併騒動の中、合併を選択しなかった。賢明であったと思う。合併というのは行政の都合で勝手に線引きし、自治体の範囲を人工的に作る。須成祭をはじめとする日本の伝統的な祭は神社というその土地の先祖を求心力として自然に集まる共同体であり、その地の山川草木と強く結びつく。そして山川草木はすべて神となって故郷を守る。
祭関係者が冨吉(とみよし)建(たけ)早(はや)神社と八釼社の両神社に参り、その足ですぐ隣に立つ寺院にも参詣した。我が国では江戸時代まで、神社と寺院は必ず一か所にあった。それを分けて寺院を追い出したのは明治政府の廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)という仏教排撃のせいであり、これは大きな失政であったと思っている。ところがここ蟹江では本来の信仰形態を維持していた。
まず祭の名前を「天王祭」と呼ぶことに注目したい。津島神社の祭神であるこの天王は牛頭(ごず)天王(てんのう)のこと。牛頭天王とは元々インド祇園精舎の守護神で、我が国にわたって薬師如来の垂迹(すいじゃく)とされ除疫神として祀られた神様である。垂迹という意味は渡来宗教である仏教の仏が日本土着の神の姿で現れるという神仏(しんぶつ)習合(しゅうごう)の思想である。ここに、日本特有の祭の面白さをまず知っておきたい。この多神教を土台とする、神仏習合の日本人の宗教観が、ユダヤ教をはじめとする一神教の普及抑制に働いたのではないかというのが私の仮説である。
次にこの祭は川祭であるという点に注目したい。水があらゆる生命体の源であるという観念は原始の頃からあったのだろう。だから日本神話には瀬織律姫(せおりつひめ)という神が登場する。水に流すという日本語があるが、祭で人々の穢(けが)れを川に流して再出発という、伊勢式年遷宮の「再生思想」が祭に込められていると考えられる。
津島祭の最も大切な神事は御葭(みよし)神事と言って葭(よし)の束に神が降臨する。神迎えの宵祭、神送りの朝祭が終わった後、参詣者の穢れを一身に背負った御葭を川に流す神事を、神社関係者だけで行う。
神迎えをする宵祭には観光客が群集する。夏の太陽も陰る頃、4艘の車楽船(だんじりぶね)に提灯の明かりがともる。夜の帳が下り、凪いだ川面をゆらりゆらりと優雅に動き出す。桟敷にもたれ遠景から見る車楽船の動きはアニメーションを見ているようで、スロー文化の極致だった。
祭囃のついてはまた別の祭で述べるが、一言で言うと、所により祭により千差万別、邦楽としての様式は一定であるものの、ダイバーシティに富む。
ところで、元々この祭りは6月14・15日に行われていたが陰暦を太陽暦に変えて7月の第4土・日にしたという。私はこの祭日を変更する事には多少の抵抗を感じていた。陰暦と太陽暦の差には違和感は無いが、日曜日に合わせる考えに異議ありだ。1週間の6日働いて最後の1日を安息日と決めたのは旧約聖書である。が、東洋のコスモロジーには7という数にも意味を持たせているので、まあいいかと頑(かたく)なを捨てる気になった。
「日本の祭の最も重要な変わり目は見物と称する群れの発生、すなわち祭りの参加者の中に信仰をともにせざる人々、いわばただ審美的な立場からこの行事を観望する者のあらわれたことである。」と柳田国男は述べている。「祀る」が「祭り」になりさらに「まつり」になった。
大多数の見物客は、なぜこの祭をやるのか、だれが運営しているのか、考えはしないだろう。しかし、この600年の歴史を刻む津島天王祭は、日本人の先祖崇拝の信仰心が岩盤であることは確かである。
祭という言葉は広範囲に使用される。
そこで、私が使う祭の概念をまず規定させていただく。
今後私が報告する祭は英語で言うとセレモニーに限る。世に氾濫するイベントやフェスティバルの類の祭は除外する。要するに、宗教的な祭礼行事を伴う祭に限らせていただく。 また、祭という文字だが、「祭り」と送り仮名は使わず、漢字一字の「祭」とする。そもそもこの祭という文字は神職が祭壇にお供えを差し出した時の象形文字であり、スピリチュアルな美しい文字だ。
次に、日本列島津々浦々に存在する祭は、行われる季節、時期もその祭の動機に関係してくる大切な要素だ。
更にこの際私が提案したいのは、祭を見学したら、町並も注意を込めて観察して欲しい。祭と町を不離一体に捉えると、祭とコミュニティの因果関係が理解できる。「祭が町を育て、町が祭を育む」というのが私の持論であり、祭とコミュニティの研究を深めてみたいと考えた所以でもある。
そんなことを考えながら京都祇園祭を見学した。京都という大都会、7月の猛暑、むっとするような人いきれの渦中にいると、平安京の人々がなぜこの祭りを始めたかが読めてくる。疫病の流行忌避を神に祈ったのが祇園祭の起源だ。この祭りを主宰する祇園の産土(うぶすな)(土地の神)八坂神社には幾柱(神は柱と数える)もの神が存在するが、スサノオノミコトがスパースターだ。私は、日本の神々の中でこのスサノオに一番魅かれる。彼こそ日本神話のトリックスターである。
今年は後祭が半世紀ぶりに復活し、大船鉾が150年ぶりに巡航参加というトピックスがあったので、前祭(さきまつり)後祭(あとまつり)の2回観に行った。
日本の祭は神を迎えて祭祀し、鎮めて送ることを基本とする。京都市は戦後車社会の都市化に伴い、面倒なことは省き基本を簡略化し前・後を合体したのだが、それに気づきもう一度基本に戻し神送りを復活した。
これを主導したのは「祇園祭山鉾連合会」理事長の吉田孝次郎さん。私はこの方を風貌もひっくるめ、敬愛の念を込めて、イスラームシーア派の指導者だと表現する。彼は染色織物の研究者でもある。祇園祭の山鉾の文化財としての際立った価値は幕・織物類であり、それが京都の伝統的な地場産業と深く結びついてきた。
祇園祭の山鉾巡航を観、八坂神社に参拝し、祇園界隈の町屋を見学し、吉田孝次郎さんと会話し、京都という町と祇園祭に流れる通奏低音「不易と流行」が耳に残った。
この祭りを尾張の人は「ニシビの祭」と呼ぶ。枇杷島という地名の由来は面白い。町の境界を流れる庄内川の中州が枇杷の形に似てることからそう呼ばれるようになった。川を挟んで東側は名古屋市枇杷島町。従って、この「ニシビの祭」はほとんど名古屋タイプで、名古屋の空襲で全滅した那(な)古野(ごの)神社東照宮祭の山車そのものである。
祭を主宰する神社は複数の氏神、中心となる神社の顔が見えない。西枇杷島町は人口1万6千人、面積3平方キロの小さな町だったが、旧美濃路街道の面影を残していること、そしてその街道筋に、尾張藩の台所「下小田井の市」があった歴史で、近郷近在には一つの個性を放ってきたコミュニティだ。ところが、平成の行財政改革とやらで三町が合併、清須市となり、「西枇杷島」という呼称は祭にその名を留めるのみになった。
この祭りの見どころはからくり人形と見た。
山崎構成氏の名著「曳山の人形戯」によると、曳山にからくり人形を乗せる祭の7割は中部圏にあるという。知多半島を北に列島を縦断し能登半島に至る文化の帯がこのからくり人形の祭の集積地帯だという。
因みに、江戸時代、幕府は一種の軍縮政策で、あらゆる技術的な発明発見を禁じた。が、祭だけは左にあらず、理数系の才能は祭のからくり開発に覇を競った。その流れは関東では歌舞伎に向かい、関西では文楽に向かい、中部圏はからくりとして発達。今日中部圏の持ち味である、モノづくり、産業技術の土台となったという説を聞いたことがある。
西枇杷島祭のからくり人形の舞はレベルが高かった。山車は全部で5台、すべて江戸末期の作であり、各町内の山車にはからくりの主人公の名前が付けられている。橋詰町は王義之車、問屋町は頼朝車、東六軒町は泰(たい)亨(こう)車、西六軒町は紅塵車、圦西町は頼光車。
今年は橋詰町の幕を新調したというので解説を聞いた。前祭には簡単な紺幕、本祭りには猩々緋の幕を飾る。山車の前に掛ける幕は王義之流の書が金刺繍で施され、山車中段の幕には金具で蝙蝠(こうもり)の図が描かれている。蝙蝠は福を呼ぶと言われ、町内の繁栄と幸せを願う象徴である。彫り物の解説も長い、江戸末期名古屋の彫師森藤九郎住永の作、屋根や高欄部は河甚作という。山車のことを動く総合工芸品と称するゆえんである。ハイライトは山車の名前となっている王義之と2体の唐子人形。からくり人形には唐子と呼ぶ人形が登場するが、唐子は唐の国のことであり、服装もまさに異国のファション。王義之といい唐子といい、我々の先祖は故郷の神に異国の物語を奉納するわけだ。
日本列島は、ギリシャ・ローマ文明がシルクロードを経て東進し、中国文明を吸収してこの国へ至った世界文明の最後の終着点だった。そして、江戸期に発達した都市の祭文化はその爛熟だという見方もできる。
祭を語る前に町について語る。祭を観る前にその町を知ることが祭を包括的に理解することになる。祭は町の個性を表現する。
私は大垣という町が好きだ。天下分け目の関ヶ原の会戦、敗軍の将石田三成はこの大垣城から出陣した。大垣城に立つと滝廉太郎の古城「昔の光 今いずこ」を思い出す。
大垣城は戦国の栄枯盛衰を語る名城である一方、現在の大垣市は、岐阜県一のハイテク都市として繁栄する活力に富む町だ。
五月晴れの青空に祭の幟がはためく大垣八幡神社へ祭を見に行った。
大垣市は日本列島のど真ん中に位置する都市らしい。濃尾平野は緩やかに鈴鹿山脈まで西に向かって降る。木曽三川の豊かな地下水脈はこの地で湧出し、大垣は水の都と呼ばれ、俳聖芭蕉終焉の地でもある。
文化の香り漂うこの地の祭は大垣八幡神社の祭礼である。この神社のルーツは東大寺の自領であったという。因みに、現在わが国には神社が86,440社あるが、そのうち八幡社は7、817社。2位の伊勢信仰4、425社以下を大きく引き離して突出している。
八幡神社のご祭神は渡来人秦(はた)氏(し)の氏神であるが、聖武天皇は奈良の大仏殿建立に際して八幡神を護り神としたことにより、日本民族の最もポピュラ―な神となった。「南無八幡大菩薩」という言葉は、日本人が何か願い事をする時唱える典型的な神仏習合の呪文である。
ここ大垣祭は13台の曳山が登場する。車偏につくりは山の字を当て「ヤマ」と呼ぶ。そしてそのすべてのヤマには人形が乗り、更に歌舞伎を演ずる舞台がついている。子ども歌舞伎は楽しい。
私の住んでいる犬山の祭も13台の車山(ヤマ)が繰り出す。そして私の町内は舟形の車山であり、浦島のからくりを演ずる。今年大垣祭の浦島ヤマが昭和20年以来の再建を遂げたと聞いたのでそのヤマについて回った。
友人の庭師から、日本庭園の美学は造った時点から完成は30年後を見据えているという深い話を聞いたことがあるが、大体日本の工芸文物は歳月を経て骨董の次元に入らないと光らない。再建は祭関係者の壮挙ではあるが、今日浦島ヤマ(山偏に車)を見て、いまだ未完成品だと愚考した。
大垣祭の特徴、歌舞伎についても語りたい。歌舞伎も本来神社への奉納の舞が根底にある。
アマテラスが天岩戸に隠れ、この世が暗闇になった時、危機を救ったアメノウズメの踊りとテジカラオの怪力の物語は日本神話のハイライトであろう。出雲の阿国が歌舞伎を始める前にアメノウズメという神がいる。そして、江戸時代の歌舞伎文化こそ世界文化遺産に認定された日本人の演劇文化である。
大垣八幡神社を中心に屋台が立ち並ぶが、この的屋文化については他の祭で論ずる。
知立市の出しているパンフレット類はすべて「まつり」とひらがなで書いてある。祭の字の下の部分「示」は三方の形、上は肉月で生贄の供え物を意味する。すなわち、祭という漢字そのものが神に捧げものをする時の象形文字であり、「祭」と必ず漢字で書いて欲しいものだ。これは由緒ある知立神社の権威に関わることだ。知立祭を主宰する知立神社の由緒は古い。熱田神宮、三島大社と並び東海道三社に数えられていた歴史がある。筆頭ご祭神はウガヤフキアエズ。鵜の羽の上でお生まれになったと聞いた時、犬山の鵜飼に熱中していた私には親近感を覚えた神、初代天王神武の父であり、神話世界最後の神だ。
知立祭は5月2・3日に行われる。日付が固定してあることも嬉しい。というのは、全国どこの神社も1年の例祭日は毎年固定しているのだが、観光客に配慮して例祭日に近い日曜日に毎年毎年祭の開催日を変更する。要するに、観光向けの祭になりつつある。祭の権威を測る尺度として、このことを頭の片隅に置きたい。祭の原点はその土地のご先祖との邂逅である。神となった先祖を迎え、五穀豊穣や厄除けを願った信仰そのものであった。その点で知立神社には権威がある。
知立祭には5台の山車(ダシ)と呼ぶ曳山が繰り出す。「担ぎ上げ」といって、巡行中町角へ来ると、高く大きな山車の一方を担ぎ上げて回す。かなり傾くので見物しているものはハラハラする。担ぎ手である若い衆が格好良く見える祭の見せ場であろう。
祭には厳粛な神事と、喧騒な行事が共存する。酒を飲んで騒ぐことは神もお喜びになるという解説を正統な神職から聞いたことがある。祭の行事の中で風流(ふりゅう)とか練物(ねりもの)と呼ばれるものは今で言う所のパレードであり、何でもありでいいのだ。祭に伴う騒ぎに大衆文化の歴史的絵巻を見る。
5台の山車の1台はからくり人形だが、4台は文楽を奉納する。この人形浄瑠璃が知立祭の白眉であろう。私は数年前、この文楽を語る義太夫を聞いたが、その語りは90過ぎの方だった。感情移入され高揚した語りの声とベンベンと重く低く響く太三味線のハーモニィが知立神社の社に木霊し、日本音楽の美を耳に留めている。
邦楽の世界では70過ぎてから声も技術も上達するという話を聞いたが、それは正座という体勢が体の使い方にロスを生まないそうだ。とにかく、日本の文化と欧米の文化は根本からその考え方と様式が違うという事を、祭をやっていると思い知らされる。
日本人はその様式とその奥にある思想を明治以降捨て去り、忘れてしまったのではないかと思えてならない。
今年の知立祭は「全国山・鉾・屋台保存連合会」の総会と兼ねて開催された。この連合会に所属する32の祭がユネスコの無形文化遺産になる可能性が出てきたからである。
東京都議会のヤジを巡って議論が喧しい。世間が反応したように、ヤジった自民党の男性議員は語るに落ちた。彼の女性観は隠しようがなく、根底に差別の思想がある。しかし、彼は決して例外ではなく、自民党の男性議員は少なからずああいう女性観を持っている。権力とカネを持った男の女性観であろう。私は、自民党の県会議員を12年経験したからそれがよくわかる。
今の人は多少違ってきたかもしれないが、私が若いころ秘書として仕えた自民党代議士は、演説会で、「女性には国会議員は無理ですよ」と平然とスピーチしたものだし、私自身もそう思い、周りの男性議員たちはそれに似た発言を常識の如くしていた。日本は欧米先進国の民主主義に大きく影響されているとはいえ、社会的優位に立った男性のリーダーにはパターナリズムというか、よく言えば、ゴッドファーザーのような自負心があるが、裏返せば、どうしようもないイスラム原理主義者に似た女性観から抜け切れず、特に自民党にその遺伝子がある。
私は幸い、社会進出した有能な女性のオピニオンリーダー達と出会い影響された。人権という視座から、女性の可能性を最も知る男の一人であると自負している。いやむしろ、女は社会構造として抑圧されることが多い故に、忍耐力と持続性に勝り、男に比べ生命力が強いと感じている。逆に男は女に比べ社会的アドバンテージがあるが、いざとなって甘さと弱さを露呈する場合がある。
話を東京都議会に戻す。
今日も、テレビで、この話題を取り上げて識者が議論をしていたが、彼らたちにも分からない故指摘されない視点がある。それは都議会の存在そのものの議論である。
私は、愛知県議会議員、犬山市長時代は市議会議員を知り尽くし、衆議院議員を経験したが、議員と一口に言ってもそれぞれ違いがある。今回対象になっている東京都議会議員を含む、全国の都道府県議会議員について自分の経験談を言うのもなんだが、議員職の中で、最も中身のない存在であり、競争がなく、選挙は半数以上が指定席だろう。結果、投票率は常に低い。しかも仕事は、政治活動というより後援会活動的なものが多く、地域では結構な名士で、収入もそこそこ保障されるが、どんな公務をしているのかわからない霧の中。議会の傍聴者はなく、進行はシナリオ通り、言論の府というよりはセレモニー会場、更に言うと、談合部屋のようなものだ。
そもそも、県知事自体、一応選挙はするものの中央官庁の天下りみたいな知事がほとんどだ。勿論、まじめな努力家で、社会的使命感にあふれた有能な議員もたくさんいることは言うまでもない。が、私の言いたいことは、都道府県政自体の意義付けである。
それに手をつけない限り、あの野次をうやむやにする体質から抜け出すことはできない。
「本来無一物」―書斎に掲げた禅語である。 人間は誰でも無一物でこの世に生まれ、無
一物で死んでゆく。死ぬ時はなんの肩書も金
銭も関係ない真裸で、生まれた時と同じ状態
で去ってゆく。
年々身の回りに身近な存在の人物が去って逝くようになって、私も頭の片隅に自分の死というものがちらつくようになった。
さらに、祭の研究をはじめ、知らず知らずのうちに宗教の世界に関心が湧くようになり、宗教学者島田裕巳氏の著作を数冊読み、最新作「0葬-あっさり死ぬ」で考えさせられた。
職業柄、膨大な数の葬儀に出てきた。
政治家稼業は一面、冠婚葬祭業といってもいい。正直、葬儀には、故人にあまり悲しみの感情移入がなくても行った。政治家は、葬儀場の供花みたいな存在であると思ったこともしばしばだった。祝い事は前もって日程が立つから都合がつくが、葬儀は突然だからやりくりに困ったものだ。だから私は通夜を重視した。通夜も、来訪者がおさまった頃を見計らい親族と会話できる頃行く。通夜に集まる親戚の相関図は政治家にとって選挙運動の最良の手引書だ。
話を戻す。
「0葬」によると日本の葬儀費用は世界一高いと言う。我が国では、平均で葬儀代が200万余円、墓を創ったらまた200万円、合計400万余かかる。アメリカ44万、イギリス12万などと比べると法外な金額になる。
今後我が国は団塊の世代が死ぬから、増々死者が多くなり、葬儀関係のビジネスは有卦に入る。需要と供給の経済原則で、葬儀にかかる費用はますます跳ね上がるだろう、と見る。
島田裕巳氏は、通夜も告別式も必要ない、死体を火葬場へ持っていき荼毘に付し(火葬にすること)、骨も受け取らなければいいと言う。骨を受け取るから、墓も要るわけだ。
どうしても規則で受け取らねばならない場合は、自分で砕いてそのあたりに播けばいい。それを「自然葬」と呼び、荼毘に付すだけで完了を「0葬」という。
伊藤栄樹(しげき)という御仁は「人は死ねばゴミになる」と言ったそうだ。この人は1985年検事総長をやった人だが、さすが法律家らしい表現ではある。しかし、この言葉を宗教的、あるいは文学的に翻訳すると、「人間本来無一物」とアレンジできないこともない。
私が犬山市長になったのは1995年だった。その後、2000年から介護保険が始まり、全国何処へ行っても介護施設が見る見る激増した。
そして、次に来るのは葬式に違いない。南海トラフの如き、団塊世代死亡の大津波が列島を襲う日も近い。
最近、超高齢者の葬式を聞いて「あの人まだ生きていたの」という世間の声を聴く例もしばしばある。肉体の死と、社会的な死との間隔が空き過ぎて、別れのリアリティが空洞化現象を起こす。
私の葬式は「0葬」で行くかどうか今少し時間をかけて考える余裕はまだある。
27歳で国会議員の秘書となり、政治人生に飛び込んだ当初、新聞を読んで世の中の情報を知ることは駆け出しの大切な日課の一つだった。
政府から国家褒章と叙勲が発表されるとその受章者に祝電を打つことは重要な仕事だった。何しろ、受章者は国家が認める卓越した功労者なのだから。
若い時その癖がついたので、以降春と秋、昭和天皇と明治天皇の誕生日に発表されるこの二つの表章者には必ず目を通す。そして、人生の名誉についていささか思いを馳せ、また自分の心の中で歳と共に微妙に変化する人生の価値観の変化にも気付く。
褒章受章者800人、叙勲4000人、すべて政府が関与する。内閣府の賞勲局がまとめるのだが、形は内閣総理大臣が天皇に上奏し栽可を受け発令する。
受章や等級の名称を聞くと、なんだか日本史で学習した、古色蒼然、律令制が蘇えるような気がする。
叙勲の位階の高い人は親授式と言って天皇から直接、その他は総理からの伝達式、大臣、知事クラスに分かれる。いずれも、受賞後、配偶者同伴で天皇に拝謁の栄に浴す。
受賞者の中には、受賞後、盛大なパーティを開催する人もあり、そんな席に何度も出席した。
かって出席した政治家だったが、ユーモアを交えてこんなスピーチをした。
「この度不肖国家褒章の栄誉に浴し、天皇陛下に拝謁賜った。妻も着物を新調し、新幹線で上京、最上のホテルに泊まりそのうえこのパーティと、随分金も要った。何がそんなにいいかといって、私が死んだら墓石に褒章の文字が刻める。一族郎党子子孫孫、誠に名誉なことである。」
私はこのスピーチを聞いて、瞬間江戸時代の狂歌を思い出した。
「虎は死んで皮残し、人は死んで名を残す」。
褒章も叙勲も必ず推薦者がいる。自薦ではなく他薦制である。関係団体とか業界が、ほぼトコロテン式に組織のトップを根回しし受章させる仕組みになっている。叙勲は原則70歳以上だが、褒章は違う。私も自治功労で対象者になってはいたが、犬山市長の時、事務担当者に、私の申請はしないように伝えた。世の中には、受章が決まってもあえて受けない人もいるので、あらかじめの打診がある。私は、公職を勤めさせていただくことそれ自体が名誉なことと考えていたので、これ以上は不必要と考えた。
受章者は例外なく立派な方々であり、偉大な人生の証であることに、一点の疑いを持たない。が、あえて言うと、人の人生に階級をつけ序列をつける発想に私は賛同しかねる。
また、褒章や叙勲の対象にならない人物、人生に、輝くダイヤモンドのような存在がどれほど多くいることかという事を考えるのも今日、「昭和の日」という国民の祝日かもしれない。