久し振りにのんびりした日曜日、子どもが口すさんでいる歌声に「おや、聞き覚えのある歌だな」と思わず聞き耳を立てた。
まどにそびゆる おわりふじ にわをめぐらす はちまんの
はやしのまつの ふかみどり とわにしたしき ともなるぞ
「おとうさん、これ、小学校の校歌だよ」と教えられ、思わず膝を打った。
「おとうさんのころと、おんなじだ!」
みるめはるけき おわりのの 小弓が庄に 地をしめて
きよきまどいの やかたこそ
そうだ、あのやかたこそ・・・・ 「わがなつかしき ふやなれや」なのだ、と、つい力を入れて、子どもに思い出話をきかせた。
小学校に入学したのが、昭和22年の春。
通学帽にランドセル、色とりどりの洋服を着て、軽快な靴を履くこのごろの比べれば、あのころは、今では想像もつかないいでたちだった。さしずめ民芸品として、明治村のおみやげにもなりそうな布の袋に、わら半紙の教科書、ノートを包む。父親が文字通り夜なべをして作ってくれたわらぞうりを履き、指が一つ、二つ顔をのぞかせている足袋が、そのまま教室の上履きであった。
「ふうん、まるでテレビにでてくるお話みたい」という子どもに、「ちょっと待てよ」と、古ぼけた机の引き出しから探し出した”通知表”。しみだらけですっかりと色が変わってしまったが、それでも一学年から六学年まで全部見つかった。
国民学校から、小学校になった最初の年に入学、丹羽郡羽黒村立羽黒小学校、第一学年東組とある。一学年に二クラスしかなく、東組と西組だ。
”通知表”の名前も、入学当時は”通知表”だが、四学年からは”家庭連絡簿”。
”学習状況”の評価もはじめ”ABCDE”だったが、四学年からは”+2 +1 0 -1 -2”から”すぐれている・ややすぐれている・ふつう・ややおとる・おとる”と変わる。
古ぼけた”通知表”を見つめていると、遠い昔の思い出にいつまでも話しがはずむ。
父が学び、自分が学んだ小学校に、今ではわが子が学んでいることを思いめぐらすとき、わがふるさと、わが人生に、かけがえのなない貴いものを感ずる。
開校百年を祝す今、このみどりの里に地をしめたわが母校は、いつまでも人の心のよりどころである。 (昭和28年卒)
[出典] 『 羽黒小学校 開校百年記念誌「知新」』
編集・犬山市立羽黒小学校 昭和48年11月28日・発行