3月2日(日)犬山羽黒は八幡林近くの「野呂助左衛門碑」で、ことしの供養祭が催された。
犬山羽黒の地元のひとたちが、野呂家ご一族を招いて野呂公顕彰会として、毎年3月17日の命日ごろ開催されている。
野呂公顕彰会の文書に趣旨がある・・
「天正12(1584)年3月(17日)小牧長久手八幡林合戦に戦死の野呂助左衛門宗長、助三朗親子ならびに西軍、東軍の無名武士の諸霊を供養し」「後世に語り伝え保存、顕彰し」「地域の歴史文化発展に」・・・と。
三寒四温の春先だが、本日は風もおさまり青空が抜ける快晴。
犬山市一円の史跡同好の多くの方の参列参拝もあり、賑々しくも粛々と・・・。
神職のご祈祷、供養につづき、琵琶・尺八演奏の奉納も。
余談だが、八幡林の合戦、長久手の戦いで決着が着かなかった翌4月には、秀吉に従い参戦していた山内一豊が、羽黒の森川屋敷の番となり羽黒城の修築を為し、羽黒の陣の長となる。
奇しくも羽黒は、山内一豊の数奇なご縁の地でもある。
一豊の母・法秀院は羽黒城主梶原元左衛門の娘で、その母の在所の地で、一豊は はじめて陣を任される。
その後一豊は同年9月、近江長浜に5000石を与えられ名実ともに「城持ち」となっていく。
まもなく5月には「梶原景時公顕彰会」の「梶原忌」がご当地近くの菩提寺・興禅寺でことしも行われる。
野呂塚碑の西側、いまは電車道をはさんで、八幡林、八幡神社へとつづく。
「小牧・長久手の戦い」の緒戦となった八幡林合戦地の西端。
いまは羽黒小学校(昭和22年ごろに新制羽黒中学校建設)敷地になった松林の一帯のなごり。
八幡神社参拝の折り、かたわらの「戦役紀念碑」に気がついた。
子どもの頃には ここで遊んでいても気づかなかったけれど。
碑文を見て驚いた・・。
明治41年8月 羽黒村尚武会 建設とある!。
まつられているのは、明治21年戦没者と凱旋者。そして明治37、8年戦没者で、名を聞き及んでいる知り合いのご先祖様の名も見つけた。総勢百名余もが記されている・・。
きょうは 400余年前と、100余年前の武勇者と出会う供養と顕彰の一日・・・。