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臨済宗 妙心寺派 妙国山 興禅寺。
[ 興禅寺物語 -3- ]
「
梶原一族敗亡の後、当山もまた衰微す。
文明十一年(1479)天関宗鶚禅師を招請。
妙心寺聖沢派の開祖東陽英朝禅師を勧請開山とす。
時の梶原は、岩倉城主織田伊勢守敏広に仕えし梶原玄左衛門景綱にして、景親公(豊丸君)七代の末裔なり。
梶原玄左衛門茂助景義は織田信長に仕え三千貫文の領主になるに及んで寺門大いに興隆す。
天正小牧合戦の折、兵火の為伽藍堂宇すべて灰尽に帰す。
」
【写真】興禅寺山門から。左手本堂、右手庫裡。
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[ 興禅寺 寺誌沿革などから記録として書き留め 後に備える ]
臨済宗 妙心寺派 妙国山 興禅寺。
[興禅寺物語 -2- ]
「 梶原平三景時公、志ありて上洛途中、駿州清見関に於て惜敗。
建仁元年(1201)乳母お隅の方(羽黒郷士長谷部佐膳の娘)、
七家臣(福富、吉野、丹羽、福住、斎木、寺澤、田山地)と共に
豊丸君(景親)を護り、
名馬磨墨を曳きいて羽黒の地に落つ。
寺記によれば、景時の孫常円、大円、空円は、
尾張三円と称せられ 当山に住す。 」
【写真】開基:梶原景時公
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[興禅寺誌沿革などから記録として書き留め後に備える]
臨済宗 妙心寺派 妙国山 興禅寺。
-沿革-
「 当山は人皇八十代、高倉帝の承安四年(1174)の開創。
開基は伊勢平氏に仕えし梶原平三景時公なり。 」
「 往時真言宗にして光善寺と称し、小弓庄巾興禅寺山に在り、
小弓庄は良峯秀光が藤原道長に寄進の上東門院勅使田なり。
領主は二宮大県神社大宮司良峯氏。 」
「 景時は尾張の守、平保盛の目代として承安年間この地にあり、
当時の大壇越たり。
石橋山の合戦後、鎌倉幕府の重臣となるも、
源頼朝逝去ののち陥穽に遭い追放さる。 」
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【写真】 臨済宗 妙心寺派 妙国山 興禅寺。
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犬山市大字羽黒字城屋敷16に在る、「興禅寺」を、
寺誌・沿革などから 記録として書き留め、後に備える・・。
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ユニクロはお客さまのあるところ(市場)へ売場(お客さまの買い場所)を布陣する。
国内百貨店の中への出店、上海、モスクワへも出店と、求めるお客さまのあるところへピシッと市場を拓く。
お客さまの膝元へ商品を持ち歩く、これも「商いの原点」。
買いまわり商品の売場商圏寿命は、かっては20~15年。
ひと昔まえには10~5年。
いまでは客層別、ライフスタイル別に店舗展開、売場構成、商品開発を迫られる。
「 補助金・行政主導まちおこしにすがる間口商売は、
自主・自立・自助を置き忘れた、店主の自己否定か,
出不精な他力本願な自己満足でしかなくなっている・・。」と、
言い切った、企業戦士時代の戦友のことばを思い起こす。
ユニクロでさえ 売場・戸板と風呂敷に包んだ商品を,
お客さまの足許まで 持ち運ぶ。
昔流行ったアーケード商店街の個店が シャッター通り化するまちの風景に、「商いを志す人」の 「商いの心意気」「挑戦・行動」のルネッサンスを期待したい。
ユニクロの10.2月中間期決算発表で
売上額 前年同期比+31.8%、営業利益額 同+43%で過去最高を更新。保温肌着ヒートテック5000万枚完売。
10.8月期通期業績予想を上方修正はさすが。だが・・
破竹の勢いとは行かないユニクロ。
去年の3月はトヨタの強ブレーキ、派遣止めのボトム期。
ことしの3月度は、
前年同月比売上額16%減、客数10%減との速報。
「景気、天候のせいでは無い。」
低価格志向でも「買うものが無い」ミスマッチだ、と柳井CEO談。
安ければ売れるとは考えていない。
「手頃な価格で」「欲しいもの」を求める消費行動に、商品を1~2週間で方向転換を仕切れなければ「風を起こす」ことは むつかしいと、ユニクロCEOは言いたいようだ。
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