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太平洋戦争の敗色濃くなり、いよいよ本土上陸決戦近づく。
1945年6月23日。防御の楯を放棄され、壮烈な沖縄戦に降伏した日。 1945年8月15日 ポツダム宣言受諾、無条件降伏。
占領軍(米軍)は嘉手納基地、普天間基地を中核に、東アジアの制空権、有事即応態勢の確保をすすめた。
1949年中華人民共和国の成立、1950年(~1953)朝鮮戦争には、日本防衛線として、沖縄県内の米軍施設・区域の229K㎡とその機動力が、その強固さを発揮した。
229K㎡は、東京のJR山手線内側63K㎡の3.6倍分の面積。
1951年サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結。
以来、日本の領海領空領地への侵略に対する抑止力は、自衛隊と在日米軍の軍事プレゼンス(軍事展開)にかかっている。
近くは、尖閣諸島・魚釣島周辺の海底油田開発・領有権対立、南西諸島海域での中国潜水艦往来、黄海での韓国艦艇の被爆沈没、北朝鮮の中距離ミサイル飛来・通過など、東シナ海・日本海は緊張が 一段と高まっている。
基地機能、後方支援機能、部隊即応体制の強化が迫られる時期に、「2014年には 普天間基地(4.8K㎡)の全面返還」が日米の合意。
2014年 基地民有地の地主さん3030人余の念願が叶う。
普天間基地が、人口密集地のど真ん中にドーナッツのように在って危険極まりない!と声高に叫ばれる。(だが、基地周辺の草木地・サトウキビ畑に、あとから人家ができていったのだ。普天間飛行場接収時の宜野湾村人口は1万3千人。現在宜野湾市9万人)
この65年間 基地周辺には、雇用、経済、地代、補償などの因子もあって、人々と社会経済のほうが、危険(リスク)と生業・経済立地(チャンス)を承知で集積し、生活し、経済活動が成り立っている。
普天間基地が全面返還されたあと、地主さん3030人の子々孫々と宜野湾市9万人の市民生活、基地経済社会はどうなるか。観光・大学文教・国際コンベンション都市か、那覇市外延市街地化か・・。
6月23日。ことしも厳粛に沖縄戦犠牲者の慰霊祭が行われた。
【写真】普天間飛行場の北端と周辺に迫ってきて拡がる市街地。国土交通省国土画像情報から転載。
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