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秋から冬へ。冬から春へ。
今年は畑仕事がほとんどできなかった。
健康を損ねたわけでもなく、野良仕事に無精になったのでもない。
お出かけ仕事から帰って、さあ畑仕事をいうときには、
短い冬の陽が 西に傾き、手元が暗くなってしまうせい。
今年は天竜川の先や、鈴鹿川の先へのお出かけ先が続き、
面倒をみてやれなかった。
それでも えんどうがそれなりの姿でつるを延ばして、
きれいな花をつけてくれた。
おかげで、ことしも幼児の大好きなエンドウを食べさせてやれそうだ。
小枝の元までつよく剪定伐りをしても、
春にはググッと新芽を押し出してくる「野村もみじ」。
2月の終わりごろから すでに樹液の活動を始めている。
新芽が一気の30センチにも延ばして、
びっしりと葉を繁らせてくる。
春の新芽は深紫色に、抑え目にいつの間にか枝を混み合わせてくる。
春の紫外線をぐんぐんと吸収して、深緑色に変身し、
これぞ日本のミドリ色となる。
やがてあざやかな紅色のモミジの葉色で、真夏の陽射しを受け止める。
野村つつじ。 目立たず、気の置けない存在感の庭木。
庭木の女王といった人もいるほど、やさしく 強い。
いずれお迎えが来る人生。
「P.P.K.人生」がいいな・・!という。
ピン ピン コロリの人生。
「現役を勤め上げた。これからは時間がある。
いままでできなかったことをしながら、のんびり自分の時間を持ちたいと思います・・」
なつかしい便りに出会う。
「ヘリコプター人生」のように、ゆっくりとおだやかに過ごされるのだろう・・。
片や どうか。 あしたこうしたい、来年はこうありたい・・と、
これから先ばかりに せかされている。
どうやら燃料切れで、レーダー画面から機影が消えるまで、
この大空を 飛び続けていくだろうな。
まるで「プロペラ機人生」。
周りを明るく照らしつづけ、
ポッと燃え尽きる「ローソク人生」もいいな。
インスタントラーメン(即席ラーメン)が日本で誕生してから50年になる。
日清食品の創業者:安藤百福さんがまだ「サンシー殖産」当時のこと。
家族が天ぷらを調理しているのを見て、その天ぷらを口にした食感からひらめいた。
ゆでた中華そば麺を「油の熱で乾かす」瞬間油熱乾燥法。
「nissin即席チキンラーメン」は1958年(昭和33年)8月25日に新発売。
いつでも、どこでも、だれでも、お湯さえ注げば出来上がり。
またたくまに「おいしい」「簡単」「便利」と、消費者の支持を集めた。
昭和の文化遺産といわれる岩波書店の「広辞苑」の1950年(昭和30年)版では、「ラーメン【老麺】(中国語laomien)中国風の麺料理。支那そば。中華そば。」とある。
他社の辞典では、ラーメン中国語【垃麺lamian】中華そばの一種とか、
また、ラーメン中国語【老麺ラオメン】中国風麺。料理の一つ。中華そば。・・とかになる。
1958年(昭和33年)といえば「一万円札」が登場した年で、大卒者初任給13,467円、国鉄初乗り10円、お風呂屋入浴料16円の時代。
一袋85g入り「35円」の「nissin即席チキンラーメン」は、“爆発的な”売れ行きとなった。
チキンラーメンは「支那そば」「中華そば」「老麺」「垃麺」に代わって、「ラーメン」という呼び名で広まって今日に到っている。
インスタントラーメンは、たぶん日本人初の発明だろう。
ニッポン発の文明・文化のひとつだと思う。
日高の昆布、ひじき、ジャコ、身欠きニシンとも違う。
干しぶどう、干し柿、干し大根とも違う。
梅干し、なれ寿司とも違う。
もうひと手間かけるとすぐ食べられる状態になる。
とき、ところを選ばずの携行食品で、
千年来の乾飯(kare-i-i 握り飯)の知恵、文化を超える。
10代の終わりごろ、素人の無謀登山だが、
飛騨乗越から槍ヶ岳を目指した。
ビバークし 雷鳴土砂降りの中でかじった、
あの日の チキンラーメンが忘れられない。
マグロの缶詰、するめ、キャラメルより、チキンラーメンだった。
半世紀経っても、一杯のチキンラーメンは おいしい。
日清食品の製造開発で、瞬間油熱乾燥法の「技あり!」。
熱湯のひと手間で、いま世界のすみずみで、愛され食される。
ヒトの生きざまの本源に合う「ものつくりニッポン」の本質なのだ。
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