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明治11年 山県有朋は藩閥政治の確立・長命をはかった「国の在り方」理念づくり。
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この国の主権をあらためて国民に還し、国民と国の在り方のために。
政権交代に付託された国民との約束事を、軽々には破らない。
永田町・霞が関のために、国の在り方を合わせるのではない。
国民の生活・生存と、この国の安全・国のカタチを護る。創る。実現する・・。
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平成の国士・・・・OZAWA ICHIROUは 山県有朋を超えられるか。
ブログ「”永田町異聞”(新 恭)」は、読み応えがある。
重みがある。 七つの海をめぐる深海流の流れを見る如し。
どこかの市民大学で 採り上げて、じっくりどっぷり生涯学習にする時代が来ないかなあ・・。
ブログ「”永田町異聞”(新 恭)」・・・:
http://ameblo.jp/aratakyo/day-20120531.html
「鎌倉(幕府)本体の武士」と称賛される、梶原景時公。
征夷大将軍・源頼朝とは”一心同体”として支え続けた世直し事業。
京の都。帝と 公家衆が政(まつりごと)の頂点を確執する中、
西の平氏・絆の一門に対峙する、関東武士集団が求めた武士の世。
束ね役に奉られた源頼朝を、幼子の時 助命し、支えた景時公は、
頼朝亡き後、梶原一族もろとも、番頭役に徹した北条氏一族に追放誅殺される。
歴史は勝者の都合で書き綴られる、というが、
以後、悪玉の参謀役として流布されてきた・・。
近年 梶原景時公の復権・見直し機運が強い。
景時公の孫・豊丸(のちの景親)の乳母・お隅の方の生家の郷:羽黒には、景時公が開基の興禅寺があり、七人の家人らと身を寄せた・・。
梶原景時公顕彰会がゆかりの人たちなどで、梶原忌を営むこと25年。
平成24年5月20日 名誉会長梶原拓元岐阜県知事さんはじめ多数の来賓を迎えて節目の供養が営まれた。
初めての試みとして、LIVEで動画配信され、アーカイブでいつでも どこでも見られるようになっている・・:
http://live-inuyama.satoyama-koubou.jp/
(提供:地域動画配信局 16Live 犬山)
ほんの偶然のチャンスだった・・。
奥美濃 せせらぎ街道。
家路を急ぐ中、同乗者がつぶやいたひとこと・・。
芝桜がきれいな民家があるはずだ。
テレビでもやっていた・・。
ちょっとばかり林道へ入り込んだら、
あった! 芝桜のお家が。
(・・・・・こりゃあ お手入れが大変だぁ)