18 『看護と共に』

今、旬の女性橋場 憲子
 昭和20年、終戦で日本が混沌としていた時期に富山県にて生を受けました。家は決して裕福とは言えませんでしたが、山紫水明の地でのびのびとした幼少期を過ごしました。
農家の三男だった父は細々とした商いで、母と共に、私たち3人の兄妹を育ててくれました。
当時父は、『これからの日本は民主主義の時代を迎えるから』と、家庭内のルールは家族5人で話し合って決めようと言い出し、毎週一回、家族会議なるものを開き、私たち兄妹にも自らの意見を言わせました。
橋場憲子さん
橋場憲子さんそんな父でしたから、私の進路選択にあたっても、これからは女性も職業を持って自立していく時代になるからと資格をとるように勧めました。
大学を受験するほど家計に余裕がないことは子供心に分かっていましたので、学費のかからないそして資格がとれることを選択肢として看護学校に進むことにしました。
今から振り返ってみると、看護への高邁な精神に裏打ちされ、看護の道に進んだわけでなく、生活の糧とせんが為の職業選択だったのです。


看護師(当時看護婦)の免許を取得するや、ひたすら職務に邁進し、同時に結婚、出産、育児という山あり谷ありの時期を、夫や子供達の協力を得ながら乗り越えてきました。
そして臨床現場では、仲間や後輩と共に悩み議論し、時には上司と後輩との意見調整に苦慮することもあり、また時には医師と激しく意見交換して、患者個々のニーズに合った看護ケアを探求しつづけていました。
そのうち自分自身、看護職が天職かも知れないと思えるようになっていました。
 医療における日進月歩と時を同じくして、看護界にも、色々な波が押し寄せ、従来の看護や看護の周辺のものの考え方が見直され、今から思えば少々翻弄させられた感もありますが、「看護記録はどうあればいいのか」「看護診断を・・・」「24時間勤務における申し送りのあり方」「勤務体制の見直し」「看護の基準化」「電子カルテ化」「看護倫理について」と枚挙に暇がありません。

そんな中で一貫して取り組まねばならなかったことは、人材育成だったと思います。
看護は人と人の関わりの中に創り出される看護サービスですから、その看護を創り出す人の育成は、いつの時代にあっても欠くことの出来ない課題であり、自分が所属する組織内だけの問題でなく、地域全体、ひいては県内外の看護職が連携を取り、保健・医療・福祉と切れ間のないサービス提供のために欠くことが出来ないことにも気づき始めていました。
また人材の育成は一朝一夕に出来るものではありません。根気よく、時間をかけて取り組む必要がありました。
橋場憲子さん  睡眠時間を惜しみ、次々湧き上がる課題に取り組んだことも、今から思えば看護職として一番面白く、楽しい、充実した時期だったように思います。
そして振り返ってみると37年が経過し定年退職を迎えていたと言うのが実感です。
そして退職二ヶ月後の昨年秋には、叙勲の栄誉に浴する事が出来、夫婦で皇居へ上がり、おことばを頂き、人生の第一幕をなんとか周りの人々に支えられ無事下ろすことができた
と言った感慨深い心境でした。
退職後まだ余力があるとしたら何がしたいのか、また、何をしなければならないか、自問自答の結果、出来ることなら県内の看護職の教育、とりわけ、多くの看護職のリーダーである看護管理者の教育に関わりたいと思いが固まったところ、折りもおり縁あって社団法人岐阜県看護協会に昨年末から籍を置くことになりました。

人生第二幕の幕開けとして、思いが叶って看護管理者の研修企画を担当することになりました。
今秋の開講を前に、慣れないながら、研修会準備に余念がありません。
全国から選りすぐりの講師陣を動員し魅力ある研修会にしたいと今は張り切って取り組んでいます。

2006.05.07