?6『おかみさんは家業の守り手』 |
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東京・浅草の天ぷら屋で育った。 年ごろになったころ、名古屋のゴルフ場で知り合った男性が、寿司職人でした。 スポーツが好きという共通の話題がある。家業と同じ食べもの商売やったら食べることに不自由しない、本音もあって嫁入りを決めたという。 |
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![]() ご主人は板前に専念し、おかみさんは経営を、と夫婦の役割分担がはっきりしている。 店を造る相談は、夫よりも先に、会計士や銀行に相談し、どんどん進めていった。 このころはすでに妻の実力を信頼されていたから、できたことでしょう。 でも、ご主人のほうが一枚上手のように感じた。 昭和60年、近くの岐阜市石長町名岐バイパス沿いに三階建ての「八郎鮨」は開店した。 店の特徴は、旬のネタの新鮮さはもとより、その旨味を引き立たせる仕込みと器(うつわ)にある。 彩り豊かな料理を楽しんでいただけるように、と工夫している。 |
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![]() 時代の移り変わりに、敏感でなければならない。 従業員の人間関係や営業方針にも気を配らねばならない。 おかみ稼業は、心配りが繊細でないと、つとまらない。 一方で、一生懸命やれば、お客様は、必ず応えていただける。 また、若い従業員がどんどん成長していくのを見ることは楽しいことだ。 |
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![]() おかみさんは、経営の話しになると、目がきらきらと輝やき、話しがはずむ。 控え目ななかにユーモアを織りこんだ会話は、部会のメンバーからとても信頼されている、とか。 彼女の人徳である。 |
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毎日が多忙である。 いまのところ、楽しみは夫と一緒に、器を探しにあちこち見て歩いたり、 絵を描いたりすること。 |
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いまはむかし、本当は、ちいさな店でおいしい家庭料理を作って、お客様に喜んでもらえる、小さなちいさなお店を開くのが夢でした。 おかみさんが輝やいて存在している限り、八郎鮨は飛躍がつづいていくでしょう。 紹介者:C/T |