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終戦から2、3年経ったころ、木曽川、犬山城下流(小渕)に農業用水(宮田用水)取水口変更工事が完成し、その竣工・通水式典に、「今上陛下(昭和天皇)が行幸される」その日。
仕事を休んで、きょうはお迎えに行こうと、親父が言い出した。
リヤカーの荷台に新しいムシロを敷いて、子ども全部を乗せる。
4里はあろう 遠い道のりを、会場が望める堤防まで、踏ん張ってぺタルを漕ぐ。
その後姿のたくましさと、べったりかいた汗まみれの背中。
「リヤカーは 重いが 静かでいいや」
「おまえたちも尻は痛くなかっただろうに」。
木曽川堤防左岸堤防道路。
生涯初めてにして 唯一の記憶:親子で遠出の想い出。
いまも車で ここを通るたびに、リヤカーと 親父の背中が蘇える。
小柄な体躯に悲しみを感ずるガキのころ、
「満州事変でモノも食い物もが乏しくなったころ生まれたおまえには、たいしたものを食べさせてやれなかったからなあ」。
ポツリと言った親父のひと言が、いまも耳に残る。
たしかに兄弟の中では小粒な身体。
親からもらった身体への愚痴は いっさい口にはしなかった。
戦争に負けて、朝から晩まで働きづめで 育ててくれた親。
着の身着のまま、かばん、はきものも見栄えがしなかった。
新制小学校で、とやかくと言われ 見られても、(泣きべそはかいたが)親を恨んだおぼえはない。
新制中学になったころ、隣りの芋畑から、
リヤカーにいっぱいのサツマイモの差し入れを、給食室へ届けにきたりしてくれた。
【写真】小学校の運動会。昭和初期の撮影という。戦後、この姿のまま新制小学校になった。
リヤカー。リアカー。
なんで「リヤカー」って言うのだろう・・。
どうやら和製英語。リヤカー。 Rear-car.
大正時代に 自動二輪車オートバイスクルの横ちょに付いた「サイドカーside-car」が舶来して 幅を利かせていた。
ゴムタイヤの二輪車に、鉄パイプで骨組みし、底板枠板で箱を組む。
引き手の真ん中にベロ状の突起をつけて穴を こさえる。
自転車のサドル下で「後ろから」連結して、人や荷を運ぶ。
これぞ日本人の知恵。モノつくりの真骨頂。
舶来ものがサイドカーなら、和製ものは「リヤカー」!
マツダオート三輪車、ダイハツミゼットが走り回るまで、リヤカーは生活、生業の足だった。
伊勢湾台風、所得倍増計画・高度成長前期ごろ。
やっぱり もう半世紀にもなる。
アジアの国々では、いまでも見かけるそうだ。
国内諸所の”朝市”でも、身の丈に合わせた 大事な運搬具だ。
リヤカー 万歳!
【写真】昭和27年ごろの五条川。堀田橋から尾張富士を見る。リヤカー全盛期。
秋に入り 鎮守の森の秋祭りが近づいた。
ことしもそろそろ始めるか・・と、ムラの男衆が寄り合った。
秋の大祭。 御神楽の奉納の準備会。
御神楽屋形の足回りは 大丈夫か、パンクしてないか、と話題になる。
新調したリヤカーに 御神楽屋形を載せ付けたのは、伊勢湾台風の前だった。
あれから半世紀にもなる。
それまで屋形は 堅木の車輪の接地面に鋼鉄を巻き付けた、大八車風の屋形屋台だった。
鉄輪は今も 御神楽庫に。 どっしりとした存在感。
ゴムタイヤのリヤカー屋台になって、御神楽奉納の道行きは静かになった。
太鼓、締め太鼓の打ち手は、揺れも小さくなって 助かっている。
立秋から一カ月。
まだまだ 暑い。
一区切り、一片づけ。
ぼちぼち。ひと休み。
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